三井記念美術館の『小村雪岱スタイル』展2021/03/06 07:06

 以前から見たいと思っていた小村雪岱(せったい)をやっているというので、3月4日、三井記念美術館に特別展『小村雪岱スタイル 江戸の粋から東京モダンへ』を観に行った。 日時指定予約制で、11時の開館から11時30分までの入館の予約をしておき、前日にはリマインドメールも受けた。 装幀や挿絵、関連の工芸品が主だから、当然小さいものが多く、覗き込むような展示で、観る人の少ないのが有難い。

 小村雪岱は、明治20(1887)年川越の生まれ、本名泰助、4歳のとき父を失い、母は実家に戻り、父の実弟に養育され、小学校高等科を卒業後14歳で上京して、外務省の役人安並賢輔宅に書生として住み込みながら16歳で花鳥画を得意とした日本画家・荒木寛畝(かんぽ)の画塾に通い、17歳の明治37(1904)年東京美術学校日本画科に入学、明治41(1908)年卒業した。 在学中、作家・泉鏡花と知り合い、「雪岱」という号を授けられた。 卒業後約3年間国華社に勤め、美術専門誌『国華』の口絵用の古画の模写の仕事をして、日本画の伝統を身につけた。 大正3年には、鏡花の小説単行本『日本橋』の装幀を任され、その見事な仕事ぶりで名を知られ、以後、多くの作家の装幀を請け負う。 大正7(1918)年から5年間、資生堂意匠部に勤務した。 さらに、邦枝完二の新聞連載小説『おせん』など、新聞・雑誌の挿絵に活躍の場を広げた。舞台装置や映画の美術考証なども手掛けたほか、母校の委嘱で《北野天神縁起》などを模写した。 昭和15(1940)年、53歳の若さで亡くなった。

 展示を見て、まず感じるのは、粋で洒脱な構図とデザインである。 つぎに、色の美しさ。 さらには、線の鋭さ、細やかさ。 掲げたパンフレットの絵をご覧ください。 左の《青柳》は、泉鏡花の単行本『日本橋』の挿絵を、後日、木版多色刷にしたもの、部屋の真ん中に三味線と鼓が置かれて、描かれていない人の気配を感じさせる。 右の《おせん 雨》は、邦枝完二『おせん』の挿絵を木版にしたもの、右下の黒い頭巾をかぶった江戸一の美女おせんが、言い寄る男から逃げる場面で、雨と傘の重なりで緊迫感を演出したという。

 凛とした美しさの女性像は、江戸時代中期に錦絵(多色刷木版画の浮世絵)を完成させた鈴木春信の再来といわれたそうで、春信の《お仙の羽根つき》《三十六歌仙 三条院女蔵人左近》も展示されている。 美術史家の山下裕二さんは、雪岱はある随筆に「母の顔が瞼(まぶた)の裏に残って忘れられません」と書いていて、雪岱の女性像には子供の頃別れた母の面影が重ねられているのかもしれないと指摘している。

 小村雪岱の挿絵を見て、昭和10(1935)年に『サンデー毎日』に連載された吉川英治の『遊戯菩薩』などは、挿絵付きで読んでみたいと思った。 永井荷風『すみだ川』、中里介山『大菩薩峠』、川口松太郎『風流深川唄』『お江戸みやげ』の舞台装置原画があるが、実に愛らしく魅力的で、手元に置きたいような気がした。 工芸に、乙川優三郎の小説でその名を知った、江戸時代の原羊遊斎の《紫陽花黒蒔絵大棗》があった。

西欧で理解した議会像、相互抑制と均衡2021/03/07 07:46

 松沢弘陽著『福澤諭吉の思想的格闘』、第II部「国民国家形成の構想」第四章は「公議輿論と討論のあいだ―福澤諭吉の初期議会政観―」である。 その第一節「公議政体対「社中」・討論」。 福澤諭吉は、幕末から明治初年にかけての、公議輿論・公議政体のさまざまな政治的動向に大きな影響を与えながら、ついにそのような動きには自ら参画することはなかった。 彼は、この間に、議会政を機能させる条件としての国民多数の政治文化の改革についての思索を深め、自ら同志を結集して「演説」と「衆議」という形でのその「稽古」を始めた。 またこの時期を通して福澤は、彼の議会政の理論の原型を発展させ、同時代の日本でおそらく最も深くまた独創的な議会政構想をつくっていた。

 福澤が文久の遣欧使節ではじめて議会を見聞した時には、全て理解をこえる制度だったが、『西洋事情』にいたると他には見られない正確な議会像となり、各国「議事院」のうちの一つ―下院―は、身分門地にかかわらず選挙で「名代人」を選び、国法を評議する会議体として理解されるにいたった。 『英国議事院談』(明治2(1869)年)では、ブラックストンの『英法釈義』から、英国議会の混合政体および相互抑制と均衡という原理を的確に読みとり、「衆庶会議」と「貴族会議」は、本来的に君主の“強い執行権”を“前提”とし、それが方向を誤まったり圧制に転ずるのを「抑制」する機能を期待されていた。 この「抑制」の原理はやがて「平均」というキーワードに結晶し、福澤の政治社会論のかなめにまでなるのである。

 福澤は『西洋事情』ですでに、この「抑制」を、政治社会の構成原理として、議会における君主・貴族院・庶民院の「鼎立」「抑制」という範囲にとどまらぬ、古い伝統に根ざした、“全社会にわたる”ことがらとしてとらえられていた。 ヨーロッパ諸国の政治、軍事、産業、学芸、社会福祉等を実態調査した際、それらの技術水準やサービスに驚くだけでなく、早くもそれが誰によって、いかに運営されているかに注目していた。 福澤が発見したのは、国民社会の公共的なことがらが、学芸や産業から軍事にいたるまで市民の自治的自発的結社―「社中」によって担われているという事実だった。 『西洋事情』外編巻之二ではチェンバース社の『政治経済学』を引き、「市民の会同」が自己立法と自治によって独立して、政府の権力を「抑制」する姿をよくとらえている。

 統治機構としての議会と政治社会全体との双方に通じるこのような理解は、福澤の国民国家形成の構想の基礎となった。 福澤はこのように多元的な均衡抑制原理にもとづく西洋社会の姿を日本に初めて紹介したばかりでなく、『西洋事情』外編を脱稿する頃には、自ら「相与に謀って」、「社中」としての慶應義塾創設という実践にふみ切った。 加藤弘之、津田眞道、神田孝平、西周らが開成所や幕閣の公議所で、幕府追討軍に徹底抗戦を唱えて、体をなさず明確な結論を出せない激論を繰り返していた時、福澤は、「社中」同志の討論を重ねて、世情混乱の中に新しいタイプの塾を一歩々々築き始めていたのである。

議会を始めるには、まず演説・討論の練習から2021/03/08 07:06

 福澤は、新政府の公議輿論路線と、在野の民撰議院設立要求の、両者を視野に入れながら、どちらにも距離をおき、少数の同志を結集して独自の活動を始めた。 『学問のすゝめ』と『文明論之概略』に通じる一つの主題は、演説と討論であったが、明治6(1873)年頃からは同志とともに演説・討論の練習を始め、この年か翌年には『会議弁』を刊行した。 明治7年6月27日、社中14人で、三田演説会を発会、毎週一回の集会をたゆまず続け、発足当初は「討論会を活発にやって、その合い間に演説会」をやった。

 『文明論之概略』は、全編を討論・ディアレクティークへの関心が貫いていて、その全体が「異説争論」の「紛擾雑駁」の中に討論が成り立つにいたるプロセスを提示していたとさえいえよう。 これらを素材として、この時期における福澤の議会政理解をさぐってみたい。 第一に、議会を、政府に対する抑制均衡の機能でとらえるという思想は、それ以前から一貫している。 第二に、討論と言論の自由という思想。 第三に、議会の機能を人民全体の「習慣」や「気風」との相互作用でとらえるようになった。

 議会政の本質や機能をこのようにとらえていたとすれば、福澤が公議輿論をかかげる新政府の現実や民撰議院設立の運動に批判的だった背景も容易に理解することが出来よう。 「説を述るの法」を知らず、「集会談話の体裁」が成立しないのでは駄目で、現在の政府が一国の智者を集めながら「専制」におちいっているのは、長い「無議の習慣」ゆえに「衆議の法」を知らぬからだとした。 こういう条件のもとでは議院の席でも、予め書いた文書を読上げたあとは、議論が出来ず、引下がって再び筆をとる「筆談の集会」にならざるを得ず、「とても民選議院も官選議院も出来ますまい」(「福澤全集緒言」)。

 (このあたり、そのまま令和今日の議会を思わせるではないか。140年経って、まったく進歩していないのか。)

「智見の交易」「異説争論」で真理を発見、合意する2021/03/09 06:58

 「公議輿論と討論のあいだ―福澤諭吉の初期議会政観―」の第二節は、演説・討論・籠絡―その理論と歴史的背景と。 福澤は、このように議会の本質を演説・討論に見出し、日本における国民国家形成の当面の重要課題として、演説と討論の「始造」という課題にとりくんだのであった。 福澤が演説・討論というコミュニケーションの新しい方法に注目するにいたった背景には、人と人とのコミュニケーションにおける、話しことばによるコミュニケーションの意味の発見だった。 当時の啓蒙の知識人たちの中で、ほとんど福澤ひとりが、話しことばの領域にふみこんだ。 「文章に記せばさまで意味なき事にても、言葉を以て述れば之を了解すること易くして人を感ぜしむるものあり」(『学問のすゝめ』十二編)と、コミュニケーションにおける書きことば優位の伝統をひっくりかえし、学問の方法を、本読み中心から口頭の相互コミュニケーション重視に転換した。 それは福澤における学問観の革命的転換の重要な一側面だった。

 そのことは、おそらく福澤の書きことばにも影響した。 文章をわかり易くするために、新しい文体を創り出そうとする時、福澤が念頭においたのは、話しことば、寺子屋の手本『江戸方角』や真宗蓮如の『御文章(おふみさま)』だった。 福澤は、話しことばのレヴェルを引上げ、コミュニケーションの質を高めることを大きな目標にしていた。 そして、一見話しことばから隔った高度の議論文も、争点を特定し、特定の相手を予想して、彼らとの討論を頭において著された。 「親鸞上人が自から肉食して肉食の男女を教化したるの顰(ひん)に倣(なら)ひ」「世俗通用の俗文を以て世俗を文明に導く」(「福澤全集緒言」)のが、文体についての方法だった。 しかしそれは、文章を「俗文」のレヴェルにまで引下げることによってわかり易くするといったテクニック以上のことを意味していた。

 福澤にとって、話しことばによるコミュニケーションの基本的なタイプは、スピーチとディベイト、福澤が苦心して訳した「演説」と「討論」だった。 福澤の定義で、演説とは「大勢の人を会し」た「公衆」に「我思ふ所」を伝える、公衆に対して意見をのべる行為である。 討論は、一義的な定義はないが、複数の人が集まった場での談話、「集会談話」といえよう。 異なる意見の相互交渉、福澤のキイ・コンセプトでは、「智見」の「交易」、「異説争論」がその本質だった。

 福澤は、異なる意見の「交易」と「争論」によって真理を発見し、合意を形成する可能性をかたく信じた。 しかしそのような人間の合理性への信頼は、このような人間および人間の関係における合理性の限界についてのはっきりした自覚をともなっていた。 福澤は「人と人と相接」する討論の効果について大きな期待をいだいた。 しかしその福澤は、このような討論の成り立ち難さについて、とりわけ日本の文化と、幕末から文明開化にかけての状況のもとでの困難について、誰よりもよく自覚していた。 「人と人と相接」した意見の応酬の中で、互に「両眼を開て他の所長を見」うるに至ることを期待した福澤は、同時にそれと逆の現実に注意を促してもいた。

「籠絡」―その理論と歴史的背景と2021/03/10 08:06

 第二節は「演説・討論・籠絡―その理論と歴史的背景と」となっている。 この「籠絡」が問題だ。 私は2011(平成23)年10月29日、松沢弘陽さんの講演「『福翁自伝』を読みなおす―私にとっての福澤諭吉」(三田演説館、福澤研究センター・福澤諭吉協会共催) を聴き、松沢さんが綿密な校注を担当した「新日本古典文学大系 明治編」『福沢諭吉集』(実は『福翁自伝』だけの収録。岩波書店、2011年2刊)を手に入れた。 そして『福澤手帖』第152号(2012(平成24)年3月)に「『福翁自伝』の表と裏―松沢弘陽さんの読みなおし」を書かせていただいた。 その中で、松沢さんが『福翁自伝』の主題と、問題の「籠絡」について、こう書いていた。

「松沢さんは、全体を通じる主題を、閉された小社会の中の孤立した自我が「独立」に向かって自己形成する物語である、と読む。閉鎖的な藩地で疎外された孤立から出発し、自己を抑圧する政治体制と社会に働きかけ、あるいは巧妙にしたたかに戦い、たびたび自我の危機をくぐり、「独立」の内実を豊かにし、また深めてゆく。

 演説館の講演に移ろう。松沢弘陽さんは、今日は福沢を「福沢先生」と呼ぶ慶應義塾の演説館での講演だが、その意味で、私にとっても「福沢先生」であると言う。例えば、「政治の診察医にして開業医に非ず」(『福翁自伝』の見出し)という福沢は、現代社会、日本でますます意味を持っている。一方、『福翁自伝』には、自分の信条に照らして、無条件に受け入れられない部分もあった。例えば、奥平壱岐を評した部分で、「大家の我儘なお坊さんで智恵がない度量がない。その時に旨く私を籠絡して生捕ってしまえば譜代の家来同様に使えるのに…」の、「籠絡」。これは福沢の行為のかなり多くを理解するキーワードではないか、と。私が理解できなかったこの「籠絡」については、『福沢諭吉集』に脚注があり、福沢を籠絡できない奥平壱岐と「門閥制度の下で弱い立場におかれているがゆえに壱岐をことばと態度の演出によって手玉にとる福沢との対照、またそのような関係についての福沢の自己意識が生き生きと描かれる」とあった。」

 そこで『福澤諭吉の思想的格闘』の「籠絡」であるが、言葉自体の説明はなく、以下に引く、二か所に出て来る。  福澤のキイワード「異説争論」は両義的だった。 一方ではそれは、知的な生産と感情の次元にまで深まった相互の一体化を意味し、これを促すことが求められた。 他方ではそれは、異説の齟齬と紛争を意味し、それが「止」み「和」することが求められた。 決定的なのは、誤解と敵意の再生産に走ろうとする関係をいかにして相互理解と合意に転換しうるか、その方法だった。

 『文明論之概略』全編を貫く「議論の本位を定る」という「事物の利害得失」を判断する方法、概念がある。 それは、意見が対立し、社会的な性格を異にする者が交わる場合に恐怖や敵意の感情が生じるような時、いかにしてそれを制御し、対立する意見やパーソナリティーを正確に理解するかという問題に連続する。

 福澤は、「異説争論の際に事物の真理を求るは、猶逆風に向て舟を行るが如し。其舟路を右にし又これを左にし、浪に激し風に逆ひ」「航海には屡順風の便ありと雖ども、人事に於ては決して是れなし」という。 この帆船の間切り走法のメタファの背景には、九州と大坂を和船で往来した福澤の経験があったろう。 福澤のキイ・コンセプト「異説争論」の背景には、先ず幕末の「横議」「横行」(藤田省三)状況があった。 脱藩=横行という時代の大きなうねりは、福澤たち洋学派の若者をもまきこんでいた。 福澤自身、藩の上司を「籠絡」して事実上脱藩した。

 福澤が「異説争論」の問題を最も身近に感じたのは、慶應義塾創業の経験だった。 「社中」の「会議」「集会」「商議」によって運営上の案件を決定し、学生の処分など重要事項については福澤も「塾のことは私の一了簡には行かぬ」と語っていた。

 演説や討論についての福澤の議論は、社会的人間、とりわけ対立と緊張の中にある人間の心理と行動についての驚くベき鋭い洞察に裏打ちされていた。 ことばによる合意の形成の可能性に大きな期待をかけた福澤は、その難しさや限界についてもはっきりと自覚していた。 したがって、福澤において討論と、ことばやその他の〈パフォーマンス〉の「方便」による「籠絡」や「誘導」との境界は、流動的だった。 また、多種の自発的結社と議会とに担われた「衆論」の政治は、強固な「政権」の確立を当然の前提としていた。