文明史を学び国民国家形成を政治的戦略へ具体化 ― 2021/03/02 07:02
日本の前途についてほとんど絶望していた福澤は、新政権の廃藩置県の断行で、その見通しを一変し、『学問のすゝめ』の連作を中心とする民衆啓蒙の筆をとり始めた。 さらに、学制・四民平等・鉄道通信・勧業・軍制と引き続く、嵐のような文明開化政策は、福澤の知識人としての役割意識と立場の設定を一層独自のものにしていった。 政府の法令の「国民」は、政府の支配の客体であったが、福澤における「国民」は、「貴賤上下の別なき国中の人々」であり「政府の玩具たらずして政府の刺衝(刺激)と為るとともに」「其国を自分の身の上に引き受ける」主体だった。 福澤は、現状を「日本には唯政府ありて未だ国民あらずと云ふも可なり」と判断し、「始めて真の日本国民を生じること」を自己の課題として定めた。 その課題「真の日本国民」の創造のためには、政府に加わらずあくまで「私立」の立場に立つことが不可欠だった。
明治4(1871)年から明治12(1879)年頃までは、福澤の政治思想の最も創造的な展開の時期であり、福澤唯一の原理論の書物『文明論之概略』の執筆とその前後の時期だった。 それは福澤が生涯を通じて西欧の政治・社会思想の古典的な書物の数々を、おそらく系統的に選んで集中的に学んだ時期、いわば書物を通じて西欧社会との再会をなした時期でもあった。 他方それは、廃藩置県の大変革から、明治14年の政変の前夜にいたる、明治国家草創の政治的激動の時期だった。
福澤がこの時期に接した一群の西欧の書物には、一つは歴史とくに世界史の発展の構想、他の一つは具体的な歴史的条件のもとで可能な目標を設定し、実現する戦略を求める「実践的技術」(J・S・ミル)があり、両者は、国民国家の形成と変容という問題と深く結びついていた。 そのような思想を学ぶことによって、福澤の国民国家の形成の構想は、理念から政治的戦略の目標へと具体化した。
福澤は日本における国民国家の形成という課題を、世界史的な文明史の長期かつ広い視野のもとにとらえるにいたった。 『文明論之概略』では、政治家と知識人との職能と分業が論点とされ、両者はこれ以後福澤の基本的なたとえになる、もと医学書生らしい「外科の術」と「養生の法」というアナロジーで説明された。 「事物の順序を司どりて現在の処置を施し」「其事の鋒先きに当て即時に可否を決する」のと、「前後に注意して未来を謀り」「平生よく世上の形勢を察して将来の用意を為し、或は其事を来たし或は之を未然に防ぐ」「高尚の地位を占めて前代を顧み、活眼を開て後世を先見する」のとの分化である。 歴史についてのスケールの大きい理論が、そのような知識人の知的営みを可能にし、またこのような歴史における反省と先見が現在についての成熟した判断を可能にするとされた。
そして、福澤は、現実政治の衝に当たる政治家に対して、歴史の広大な展望を示して、それを指導しようとする。 知識人は、「衆論」の指導を通して、いわば迂回的に、政府を制御しうるとする。
福澤は、政府の外に「私立」し、凡百の洋学派知識人とも袂を分かって、独り突出した存在として立つことを選んだ。 政治が激動したこの時期に、度重なる決断を通して、マージナルな知識人としての自己を確立し、「私立」と「一身独立」の立場から国民国家の構想を示し、その原型を創り出すことを課題とした。 その意味で福澤を、いわば知性の「使命予言者」(M・ウェーバー)としてとらえ、「維新最大の指導者」とする藤田省三『維新の精神』(みすず書房)の理解は、まことに的を射ているといえよう。
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