秀頼の実父は誰か、という謎に迫る2023/12/14 06:56

大河ドラマ『どうする家康』がクライマックスを迎えている。 お市と茶々を演じた北川景子の格が数段上がって、料理や競馬の番組に出ている人との差が開いたような感じが、やじ馬にはするのだ。 とりわけ、茶々の迫力が圧倒的である。

 磯田道史さんの中公新書『日本史を暴く』に、「比類なき戦国美少年」と「秀頼の実父に新候補」というのがある。 名古屋山三郎(さんざぶろう)という名前は、聞いたことがある。 歌舞伎にしばしば登場する美少年で、出雲のお国の彼氏との伝説もあるそうだ。 名古屋山三郎(1572~1603)は、先祖が今の名古屋あたりの領主で、あまりにも美少年なので、茶々の淀殿と密通し、豊臣秀頼の実父になったという説がある。

磯田さんが神田の古本屋で見つけた「武辺雑談(ぞうだん)」の二巻目に、こんなことが書かれていた。 名古屋山三郎の父は秀吉の馬廻(親衛隊)で、子の山三郎が13歳の時、僧侶にしようと東山建仁寺の西来院へ喝食(かつじき・稚児)に出した。 当時、禅寺では年若い美少年を喝食として置く習慣があった。 秀吉が小田原の北条氏を征伐することになり、先鋒の蒲生氏郷が京都に近い深草の河原に軍勢を勢ぞろいさせた。 建仁寺の僧侶も喝食を伴って見物に行き、氏郷が「類なき容顔美麗」の山三郎を見て、その気になり、その父親に熱望して、小姓にした。 山三郎は、東北の大崎・葛城一揆を退治する戦場で手柄をあげ出世、氏郷は病死するが、その遺言で京都に戻り、千石取りの武士の暮らしをする。 その山三郎に恋慕したのは、淀殿でなく、秀吉が寵愛した絶世の美女の側室、松の丸殿京極竜子らしい。

毎日出版文化賞受賞作、服部英雄九州大学名誉教授の『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社)は、秀吉の奥向きのただれた実態をさぐり、秀頼の父が秀吉でない理由を明快に論じているそうだ。 イエズス会宣教師フロイスまでが、こう記している。 「多くの者は、もとより彼(秀吉)には子種がなく……その息子(秀頼兄・鶴松)は彼の子ではないと密かに信じていた」。 秀吉が朝鮮出兵で文禄元(1592)年に大坂城を出て、その留守に淀殿が懐妊している。 実の子でないと、秀吉もなんとなく、気付いたふしがある。 秀吉は声聞師(しょうもじ)という祈禱師を追い払い、淀殿周辺の男女を淫らな男女関係を理由に大量に処刑しているからである。 この粛清は公家の西洞院時慶の日記によれば「大坂において在陣の留守の女房衆、みだりに男女の義」が罪状とされ、「若君(秀頼公)の御袋(淀殿)家中・女房衆が(秀吉の)御留守に曲事(くせごと)」で処刑された。 フロイスによれば「生きたまま火あぶりにされたものや斬られたものは三十名を超えた」という。 祈禱にことよせて多額の金銀が声聞師に与えられ、淀殿周辺で不義がなされたとし、服部教授は「おそらく拾(ひろい・秀頼)の生物学的な父親は、このときに殺された」としている。 しかし、秀吉は淀殿も秀頼も殺さなかった。 おそらく、自分の政権維持と外聞のため、淀殿周辺の女中が乱交したことにして口封じを図った。

しかし、誰が処刑されたか、フロイスも西洞院時慶も書いておらず、名前がわからなかった。 磯田道史さんは、この時期の公家日記をシラミつぶしに調べて、京都・吉田神社の神主で公家の吉田兼見(かねみ)の『兼見卿記』文禄2(1593)年10月20日条に、こんな記述を見つけた。 この日、吉田のいとこの細川幽斎が来訪し、「伝え聞く、松浦讃岐(重政)御勘気と、中村少(勝)右衛門已下(いか)御成敗」「西国御在陣中、女中方の儀と」。 松浦重政は、秀頼が生まれた時、健康に育つよう、わざと捨てて拾った養育係。 果たして、この中村少右衛門は一連の管理責任を問われただけなのか、彼こそが秀頼の実父だったのか、謎に迫れるのは、ここまでだという。 磯田さんは、中村という男を追っている。