28年かけ48作、寅さんは渥美清とともに2022/10/22 07:02

 『続・遥かなる山の呼び声』では、藤井隆の音楽教師と、筧利夫の虻田が、笑いを誘う貴重な舞台回しを務めている。 朝日新聞be『山田洋次 夢をつくる』8月27日は、今日は「寅さんの日」といわれるそうだ、と始まる。 1969(昭和44)年(私が学校を卒業した年)のこの日、映画『男はつらいよ』の第1作が公開された。 山田洋次さんが、脚本を手がけたテレビドラマ『男はつらいよ』を会社の反対を押し切って映画化したものだが、試写で見ると、喜劇なのに笑えるところがどこもない。 渥美清という当代一のコメディアンを使いながら、笑えない変にまじめな映画をつくってしまったと思い、「監督としておしまいだ」と打ちひしがれていた。 ところが、その日、プロデューサーから「何してる、すぐ劇場に来い」と電話がかかってきた。 「客がいっぱい入って、みんな、大笑いしているよ!」

 急いで新宿の映画館に行った。 場内に入ると、観客がクスクス笑っている。 時々どっと笑い声が起きる。 山田洋次さんはびっくりした。 この映画は笑えるんだ。 喜劇になっているんだという驚きと発見。 その日、観客の笑い声の中でわかったことは、映画のどこが面白いかは観客が決めることだ、自分は一生懸命まじめに寅さんをつくればいいのだ、ということだった。

 寅さんを見ていると、みんな、気が楽になるという。 既成の価値基準、モラル、約束事、上下関係などややこしいことから解放される。 ごちゃごちゃでめちゃくちゃで何でもあり、というふざけきった世界が寅さんの周りにフワッと立ち上がる。 寅さんには常識というものをひっくり返してしまう、ハチャメチャな自由がある。

 この不思議な魅力、それは渥美清という俳優が発した力だ。 渥美さん自身が自由だったからこそ出せたもの。 寅さんは渥美清から誕生し彼とともに生きたのだ、と山田洋次さんは言う。

 28年かけて48作もつくった寅さんシリーズが、始まって7、8作目の頃、山田さんが、映画界でそんなに続いた例はないし、なんだかみっともないからこの辺でやめていいと思うけど、と渥美さんに提案したことがあった。 それに対して彼はこう答えた。 「5作目を封切った頃、私が東京駅のホームで遅い時間に電車を待っていたら、酔っ払ったサラリーマンが通りかかり、私を見てニコニコ笑いながら『いつも寅さん、見てるよ』と言った。私は『ありがとうございます』と答えたけど、その彼が去り際に『渥美清は元気かい』と言う。『元気ですよ』と答えたら『よろしく言ってくれよ』と言って機嫌よく行ってしまった。(中略)東京駅でそのサラリーマンに会った頃から考えが違ってきた。この役をいい加減に演じていると、田所康雄は車寅次郎に追い越されるぞというようなものを感じるのです」

 渥美さんはそれだけ言ってにこやかに席を立っていったけど、それが返事だとよく分かった。 つまり、もっと続けよう、続けなければいけない、あのサラリーマンのようなファンのために、彼らが財布をはたいて劇場に入り、窮屈な日々を忘れて大笑いして人間らしさを取り戻す機会を提供するために私たちは努力しましょう、と彼は言いたかったのだ。

 1996(平成8)年8月13日、大船の撮影所での渥美清さんのお別れの会。 東京駅から1時間もかかるのに、3万5千人が来てくれた。 炎天下、大船駅から撮影所まで約1キロの道に長蛇の列。 1日が終わり、静かになった遺影の前にスタッフが並び、山田さんが代表して「渥美さん、さようなら」と言ったら、急に悲しみがこみ上げて来て言葉が詰まり、みんな声を上げて泣いたという。

(『山田洋次 夢をつくる』(6)8月27日、(7)9月17日)

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