私の選句と「陽炎」の歴史2008/03/18 07:49

 「陽炎」と「目刺」の句会で、私が選句したのは、つぎの七句。

 陽炎やこの山を買はぬかと言ふ     英

 父の忌や墓かげろうの中にあり     芳三郎

 かげろふや黄色の帽子一列に      さえ

 尼寺の畝ひくき畑かげろへり      なな

お勝手の土間に七輪目刺焼く      和子

 突き刺さる父の一言目刺し焼く     芳三郎

 目棘干す軒寄せあひて蜑(あま)の町    ひろし

 季題レポートの「陽炎」は英主宰。 万葉集巻一48にも柿本人麻呂の「野 炎」と書く「かげろひ」の歌「東の野にかげろひの立つ見えてかへり見すれば 月かたぶきぬ」はあるが、われわれの使っている「陽炎」かどうかは、はなは だ怪しい。 王朝時代から中世にかけても、あるかなきかの、あやしげなもの、 として歌われる例が多い。 われわれのいう「陽炎」は、江戸時代に成立した のではないか、という。 俳書『毛吹草(けふきぐさ)』『増山之井(ぞうやま のい)』などでは「中春」、『栞草』には「三春」に出てくる。 これらの俳書に は「糸遊」も現れる。

 例句に、こんな句があった。

 かげろふと字にかくやうにかげろへる     風生

   紅緑子の笠に題す

 陽炎がかたまりかけてこんなもの        虚子

 風生のは、ずるい句、技でつくった。 虚子の句、紅緑は佐藤紅緑、子規の 弟子で、この時(明治29年)、虚子も紅緑も同じ22歳、この歳でこんな自在 な句を詠んでいる。 後年の花鳥諷詠とは違う、と。