「福沢諭吉の近代化構想」その二2008/06/07 07:06

 ○内閣…政府の変革を好むのは世界普通の人情だとして、世論の不満を解消 する三、四年での政権交代が国の安定を維持すると、イギリスモデルの議院内 閣制を説いた。(明治12年『民情一新』)

 最先端の自由民権運動の主張(例えば植木枝盛「日本国国憲案」明治14年) は、人民直選の議会に立法の権があるとしたが、行政権は日本皇帝にあるとし、 行政権に無関心だった。 政治論の中身は福沢の方がラディカルで、明治政府 にとってきつい側面があり、井上毅(こわし)など一部官僚はそれに気付いて 警戒を強めた。

 ○地方分権…明治10年の西南戦争後、福沢は『分権論』を書き、「政権」- 外交、軍事、徴税、貨幣発行など中央政府の権限(これは徹底的に中央集権化)、 「治権」-道路、警察、交通、学校、病院など一般の人民の周辺に存する権限、 この二つを峻別して、地方に出来ることは地方に、と説いた。 100年以上経 った現在、まだ議論中なのは情けない。 福沢はまた、地方への「分権」の議 論があれば、「分財」の議論も無ければならないと、権限の委譲にはその財政的 な裏づけが必要なことにも言及している。

 こうした福沢の「近代化構想」が説かれたのが、まだ太政官制度の時代だっ たのは、驚くべきことだ。 当時の政治情勢を批判する過程で、こうした構想 を示したのである。 これらはすべて、福沢の生前にはまったく実現されなか った。 福沢は日英同盟の必要も説いたが、その実現も生前ではない。 イギ リスモデルの議院内閣制は、明治の天皇主権の帝国憲法下では実現せず、戦後 の日本国憲法まで待たねばならなかった。 だが、二大政党制はようやく可能性が出て 来たところだし、地方分権に至っては先に見たように未だに入口の議論が続い ている状態だ。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山あ る、と寺崎修さんは指摘した。

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