寄席に出られない噺家2010/12/13 07:10

 岡本和明さんの『昭和の爆笑王 三遊亭歌笑』(新潮社)で、もう少し書いて おきたいことがあった。 一つは、寄席に出られない噺家のことだ。 今も、 円楽一門会や、落語立川流の問題がある。 歌笑の高水治男が最初、金語楼に 入門しようとして、今は役者の活動が中心だからと断わられたのは、金語楼が ラジオへの出演を巡るトラブルで寄席から締め出されていたからだった。  1925(大正14)年3月1日に、日本のラジオ放送が始まった。 ラジオで落 語をやると、客が寄席に来ないというので、これは死活問題だと、寄席で組織 していた「東京演芸場組合」が「ラジオ出演した芸人は二箇月の出演停止にす る」という規約を作った。 ほとんどの噺家は従ったが、金語楼はかまわずラ ジオに出演して「兵隊落語」を演ったため、ついには寄席に出られなくなって いたのだった。

 金語楼に紹介されて入門することが出来た金馬も、実は普通の寄席には出ら れず、「東宝名人会」だけに出ていた。 「東宝名人会」は東宝の創業者小林一 三の発案で、秦豊吉により1934(昭和9)年9月21日に、東京宝塚劇場5階 の東宝小劇場で始まった。 金馬は発足と同時に出演契約をしたが、「東宝名人 会」が寄席の経営を圧迫するというので、「東京落語協会」が「東宝名人会」に 出た者は寄席には出さないという規約を作ってしまったのだった。 金馬は契 約どおり出演し、「東京落語協会」から除名される。 1936(昭和11)年には、 「東宝名人会」と「東京落語協会」の間で和解が成立するが、金馬は協会へ戻 らず、生涯フリーで通した。

 それで歌笑は「東宝名人会」しか知らなかったが、昭和16年3月の二ツ目 昇進を前に、金馬が歌笑を兄弟弟子である円歌の預かり弟子にしてもらって、 「落語協会」の所属となり、他の寄席にも出られるようになった。  林家三平も、同じような道を辿った。 父の七代目林家正蔵が「東宝名人会」 の専属だったため、二ツ目になった頃、正蔵の死に伴い月の家圓鏡(後・七代 目橘家圓蔵)門に移って、「落語協会」の前座を務めている。 三平は「東宝名 人会」時代から三年間、歌笑に接し、大きな影響を受けた。 歌笑の死後、「爆 笑王」と呼ばれることになる三平の芸の原型のほとんどは、歌笑が作ったもの だった、と岡本和明さんは書いている。 スーツ姿で立ったまま演じたり、歌 を歌い、その時々の世相や出来事を織り込んだ、七五調のリズム感のある小咄 を演るスタイルなどを受け継いだのだった。