野口米次郎とイサム・ノグチ2010/12/23 06:59

友人の宮川幸雄さんに「「イサム・ノグチ」への旅」というエッセイがある (2003年10月『うらら』47号所収)。 ドウス昌代さんの『イサム・ノグチ ―宿命の越境者』(2000年)を読んでいない私は、宮川さんの文章で知ったこ とが、いくつもあった。

宮川さんは、長年をかけ旧東海道を少しずつ歩いて踏破しようとしているが、 その途次、藤沢で偶然、野口米次郎の墓を見つける。 JR藤沢駅から遊行寺の 方角へ向かった本町四丁目という宿場町の真ん中、本陣跡の近くにある常光寺 の境内にあり、碑面には Yone Noguchi とあるだけだそうだ。 野口米次郎は 1947(昭和22)年、疎開先の現在の茨城県水海道市豊岡で亡くなった。 享 年71歳。 息子イサム・ノグチの、戦後の活躍を見ることは出来なかった。  その死の直前、夫人と子供たちを集め、「アメリカにいるお前たちがまだ会った ことのない兄が、日本に訪ねてきた時には、心から歓迎してやってくれ」と言 ったそうである。

ドウス昌代さんの本によれば、として、宮川さんは書く。 野口米次郎が慶 應義塾大学文科教授に就任したのは明治39(1906)年、その翌年にノグチ・ イサムを母親と共に日本に呼び寄せている。 野口米次郎は帰国後、既に結婚 していたので二重生活だった。 ノグチ・イサムは、明治40年から、13歳に なる大正8(1919)年まで日本で教育を受けている。 ノグチ・イサムは、父 親の籍に入れてもらうこともなく、「父親がいた生活というものは、まったく記 憶にない」と言っているそうだ。 そのような変則的な親子関係なのに、二人 にはまるで一子相伝のように似た行動様式が見られる(宮川さんは一例に、二 人の「インドへの関心」を挙げるのだが、それは略す)。 ノグチ・イサムがコ ロンビア大学医学部進学課程に在学していた時、客員教授の野口英世から「君 にはお父さんと同じ芸術家の血が流れている。休むことなく頑張りなさい。君 はきっとすばらしい芸術家になれることだろう」と助言を受けたことに通じる ものだという。

映画『レオニー』で、その助言と励ましは、一貫して母レオニーのものだっ た。 日本の学校でいじめられ登校拒否になったイサムに、家を建てるので、 そのプランを練ってみろと、言ったのは母レオニーだ。 イサムは三角の土地 に「三角の家」を設計し、富士山がよく見える「丸窓」を母に贈る。 レオニ ーは13歳のイサムを単身アメリカに送り出す。 第一次世界大戦が勃発して、 学校が閉鎖、連絡も取れなくなるが、親切なE・A・ラムリーが父親代わりに なってくれ、高校を優秀な成績で出て、名門コロンビア大学の医学部へ進んだ。  妹アイリスを連れて、ニューヨークに戻ったレオニーが、「芸術家」への道を強 力に勧めて、上の野口英世の言葉を述べ、マンハッタンの美術学校に入ること になる。