福沢諭吉の漢詩2014/11/21 06:35

 15日、三田の演説館に、金文京さんの「漢詩から見た福澤諭吉の人生観」と いう講演を聴きに行った。 福澤諭吉協会と慶應義塾福澤研究センターの共催 の公開講演会である。 金文京さんは、京都大学人文科学研究所教授、2005 年4月から2009年3月まで同研究所長を務めた。 慶應の文学部卒業後、京 大大学院中国語学文学専攻博士課程修了、慶應の助教授を経て、京大の教授に なったのだそうだ。 専攻は、中国の小説、演劇および講唱文学の歴史。 福 澤諭吉協会の『福澤手帖』に、もう6年間も「福澤諭吉の漢詩」を連載されて いるが、まだ半分だという。

 福沢の漢詩は、全集20巻「詩集」に136首が収録されている。 製作時期 は、文久2(1862)年の欧州旅行中、ペテルブルグとイスパニア沖で作った2 首(前者は『福翁自伝』に引用)以外は、明治11(1878)年から31(1898) 年、数え年で45歳から65歳の間である。 136首の内訳は、明治11年が38 首で、自筆初稿本、序文を伴う清書本、詩稿断片、長男一太郎の筆(?)別写 本にある。 それが1年だけで頓挫しているのは、おそらく忙しくなったから だろう。 残りは、遺墨、書簡(明治12~30年に70通48首)の形で残って いた。 書簡の詩は、ごく親しい、内輪の人に、自分の楽しみとして送ったも のだ。 けして巧い詩ではなく、漢詩人として名を成すというものではない。

 福沢は漢学嫌いとして知られているから、漢詩をつくっているのは、一般の 人には意外かもしれない。 しかし、福沢の後半生にとって、漢詩は大きな意 味があったのである。

 明治11年の詩集の序文には、こうある。 20歳の時に長崎に行って蘭書を 読み、以来まったく漢学を廃して、44歳に至るまで25年間、著作の引用など の必要がなければ漢書を目にしなかった。 今年夏偶然昔を思い出して、新た に『詩韻含英』(詩作の参考書)を買い、詩作を試してみたら、韻字平仄なども 未だにまったく忘れていなかった。 老後の楽しみとして、その得たものを記 しておく。

 福沢が44歳で詩作を始めた背景には、こんなことが考えられる。 父、百 助は45歳で亡くなっており、福沢は以後、自分のことを老生と称している。  同じ明治11年、父の後輩、中村栗園からの手紙に、父は立派な儒者だったの に、福沢が漢学嫌いなのはおかしい、とあった。 甥の中上川彦次郎の勧めで、 余暇に習字を始め、この時から書風が変化した。 西南戦争の翌年であるこの 年は、旧幕時代を思う漢詩ブームであった(明治5年、旧幕以来の漢詩人の集 まり旧雨社が活動開始、8年、森春濤『新文詩』創刊、10年、成島柳北『花月 新誌』創刊)。

コメント

_ 濱田 洪一 ― 2014/11/21 21:21

金文京さんの講演、私も聞きに行きました。
私のホームページにある、福澤諭吉の漢詩らしきもの、
行路何須避世譁 書生到處計輙佳紅塵市
上営々苦正是泥中君子花
慶應義塾􅐢學就實業者多
のことが少しでもわかるかと思って。

_ 轟亭 ― 2014/11/22 20:26

濱田洪一さん
 その詩は、富田正文先生の『福澤諭吉の漢詩三十五講』(福澤諭吉協会叢書)にありました。 212頁
「慶應義塾學生就實業者多」は題です。 「慶應義塾の學生の實業に就く者多し」
行路何須避世譁   行路何ぞ須(もち)いん世の譁(さわが)しき避くることを
書生到處計輙佳   書生到る處 計輙(すなわ)ち佳なり
紅塵市上営々苦   紅塵市上営々の苦
正是泥中君子花   正に是れ泥中君子の花

【訳】世わたりのためには浮世の喧噪を避けてはならない。青年学徒たるものはいかなる境涯に在っても立派に世わたりの計画を立てることができるはずだ。都会の雑沓汚濁のなかであくせく働いて苦しんでいるその姿は、まさにこれ汚泥の中にすっきり咲いている蓮の花にそっくりに見えるではないか。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック