一時は慶應義塾の廃塾も決意2014/11/24 06:43

 明治13年は、福沢にとって大変な年だった。 慶應義塾が経営不振になり、 維持資金の借用をいろいろな所に願い出、一時は廃塾も決意した。 福沢の内 心は、その前年の大晦日の詩に、すでにそれは表れていた。

 (39)除夜(明治12年)

今是昨非嗟已遅   今は是にして昨は非なるも已に遅きを嗟(なげ)く。

春風秋月等閑移   春風秋月等閑(とうかん)に移る。

頭顱四十六齢叟   頭顱(とうち)四十六齢の叟(おきな)、

老却一年無一詩   老却して一年に一詩もなし。

 頭顱…頭蓋骨。引退する、引退すべき年になった。

【訳】(『福澤手帖』160)これまでの誤りを今やっと悟ったが、もはやおそす ぎるのを嘆くばかり。春の風、秋の月と歳月をただ漫然と過ごしてしまった。 もはや引退すべき四十六歳の老人、すっかり老いぼれてしまい、この一年間は 一首の詩も作れなかった。

(40)除夜(明治12年、後半)一番長い詩。

迎新人祝又如故    新しきを迎うるに人は又た故(もと)の如きを祝(ねが)うも、

送舊吾祈去不還    旧(ふる)きを送るに吾れは去りて還らざるを祈る。

一年三百六十日    一年三百六十日

斯生未得半日閑    斯(こ)の生(せい)未だ半日の閑(ひま)を得ず。

君不見宇宙快樂如不知 君見ずや宇宙の快楽は知らざるに在り、

人生知字是憂患    人生字を知るは是れ憂患(ゆうかん)。

【訳】(『福澤手帖』161)新しい年を迎えようとして、人々は来年もまた今年 と同じように無事でありますようにと祈るが、私としては去る年を送って、過 ぎた日々がもう二度ともどって来ないよう願いたい。なにしろ今年は一年三百 六十日、半日の閑を得ることさえ、ままならなかったのだから。諸君、見たま え、この世の楽しみは無知にこそある、人間が字を知っていることが、すなわ ち悩みのもとなのである。

 明治13年8月、義塾の廃止を決意、10月25日、社中の主なメンバーに義 塾の存廃をはかる集会を開催。 24日、浜野定四郎宛書簡(『書簡集』531)に、 こう心境を綴っている。 「開塾既に二十余年、一身一生涯の仕事としても沢 山なり。これに加うるに近来最も馬鹿馬鹿しきは、交詢社と云ひ、何々銀行と 云ひ、何々商社と云ひ、又或は此度新築の会堂と云ひ、何か為にする所ありて、 本塾が其後ろ楯に相成る歟(か)と思ふ者もこれあるべし。尚甚しきは、流行 国会論の話もあるに付ては、浮世の馬鹿者は小生を誤認して、政治社会の一人 と思ふ者もあらん。扨々(さてさて)面倒至極、うるさき陋劣(ろうれつ)世 界哉。是と申も本塾あればこそ斯(かく)の如し。今一朝にして之を潰せば、 百事洗ふが如くして本来の無に帰し、老生は都下の何処かに老して、生来好む 読書を以て残年を終らん而巳(のみ)。」

 その心境は、既に明治12年大晦日の詩に書かれていたのだ。