中島岳志さんの『「リベラル保守」宣言』 ― 2015/09/28 06:32
中島岳志さん、いいなと思っている。 1975年大阪府生れ、大阪外国語大学 でヒンディー語を専攻、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士 課程修了。 北海道大学公共政策大学院准教授で、専門は南アジア地域研究、 近代思想史。 2005年に『中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジ ア主義』(白水社)で、朝日新聞社の大佛次郎論壇賞を取ったときから、注目し ていた。 8月27日に「「A級戦犯」という言葉」にも、『パール判事 東京裁 判批判と絶対平和主義』(白水社・2007年)という本があることを書いた。 最 近は「報道ステーション」のコメンテーターとして、穏やかな口調で、鋭い指 摘をしているのを見る。
そこで中島岳志さんの『「リベラル保守」宣言』(新潮社・2013年)を読んで みた。 中島さんは「リベラル保守(liberal conservative)」という立場が重 要だと考える。 真の保守思想家こそリベラルマインドを共有し、自由を積極 的に擁護する側面があるとする。 保守は、行きすぎた平等主義による人間の 平準化を嫌う。 だが、一方で「裸の自由」、過剰で無原則な自由も懐疑的に捉 える。 保守が是とする「自由」とは、どのようなものか。 近代保守思想の 祖エドモンド・バークは、フランス革命当初から、一貫して破壊的熱狂に批判 的だった。 自由には、「自然の節度」という一定の資格が必要だとする。 自 由は、歴史的に構成されてきた「賢明な法」や「制度」によって規定された存 在である。 それは社会が長い年月かけて育んできた「人間らしい、道徳的な、 規律ある自由」で、「平等な抑制によって確保される」ものだ。
中島さんが大学生のとき読んで、大きな衝撃と影響を受けた保守思想家・西 部邁(すすむ)氏の『リベラルマインド』(学研・1993年)は、「自由民主主義 は保守主義であらざるをえない」とし、「改革派」の急進性を厳しく諫めていた。 西部氏が批判していたのは、近代における設計主義的な合理主義だった。 人 間の理性を過信し、社会計画によって進歩的な理想社会を構築しようと訴える ラディカルな革新主義に対して、西部氏は人間の理性を超えた伝統や良識、経 験知に依拠した漸進的改革の重要性を力強く説いていた。 そして、真にリベ ラルであるためには、自己の枠組みを歴史の中に求めなければならないと主張 し、保守思想こそリベラルマインドを宿していると論じていた。
中島さんは、西部氏の論考をむさぼり読み、そして、時間をかけながら保守 思想に身を置くべき覚悟を決め、バークやチェスタトン、オークショット、小 林秀雄、福田恆存などをひもとく。 そして「リベラル」と「保守」の接合点 を探る思考の旅に出た。 いかにすれば保守の源流に存在する「リベラルマイ ンド」を活性化できるのか。 「反左翼」を超えて、保守のエッセンスを抽出 することはできないのか。 本質的な保守の視点から亜流保守の主張を再検討 し、リベラル勢力との対話を進めることはできないのか。
「リベラル(liberal)」を辞書で引くと「自由」以外に「寛容」という意味 が出てくる。 「自由」は「寛容」と共に存在する。 リベラルには本来的に、 異なる他者を容認するための社会的ルールや規範、常識の体系が埋め込まれて いるのだ。
人類は、長い歴史の中で、何とか真理の一端をつかもうと、思考と実践を繰 り返してきた。 その結果、それぞれの土地の風土や環境へのアプローチが形 成され、特定の宗教や文化、伝統となって継承されてきた。
真正のリベラルは、真理の唯一性とともに、真理に至る道の複数性を認める。 ここに真の意味の寛容が生まれ、相対主義を乗り越えることができる。 中島 岳志さんは、このようなアプローチを「多一論」と呼び、その存在論と認識論 を、アジア思想の中から学んできたという。 インドで生まれた不二一元論、 中国の老荘思想、仏教における「多即一、一即多」、そして西田幾多郎が説いた 「多と一の絶対矛盾的自己同一性」。 これらの思想は、相対レベルにおける価 値の多様性と差異を認めつつ、絶対レベルにおける真理の同一性を共有すると いう認識構造を持っている。
今一度、リベラルな自由民主主義を歴史的に構築された経験知によって再定 義し、さらにアジア的多一論によって包み直すことこそが重要なのではないか。 そうすることによって瀕死のリベラリズムを蘇生し、真の寛容を確立すること ができるのではないか。 「多一論的なリベラル保守」の立場こそ、今の時代 に求められているスタンスだと、中島岳志さんは考えている。
最近のコメント