「鎌倉アカデミア」という学校2017/05/24 06:35

 22日、新宿のK’s cinema という映画館で『鎌倉アカデミア 青の時代』と いう映画を観て来た(26日まで12時30分から上映)。 昔から新宿のゴール デン街に馴染みのある大学の同級生が、勧めてくれたのだ。 私は山口瞳の愛 読者だったので、「鎌倉アカデミア」については興味があった。 まず、以前 「等々力短信」第718号(『五の日の手紙4』78頁)に書いたものを引いてお く。

    鎌倉アカデミア <等々力短信 第718号 1995.9.15.>

 昭和21年4月、19歳の山口瞳さんは、鎌倉にできた鎌倉アカデミアとい う学校の生徒になった。 はじめ、この学校は鎌倉大学校といっていたが、文 部省の認可がおりなくて、鎌倉大学を名乗ることができなかった。 光明寺の 本堂や庫裡を仕切って教室にしていた。 国文学西郷信綱、文学史林達夫、仏 文学中村光夫、英文学高見順、吉田健一、日本史服部之総、哲学三枝博音(ひ ろと)という、そうそうたる顔ぶれの教授陣であった。 そして「万葉集と短 歌」を担当したのが、44歳の吉野秀雄だった。

 山口瞳さんの『小説・吉野秀雄先生』(文藝春秋)には、鎌倉アカデミアで 出会ったこの巨人に、決定的な影響を受けたことが書かれている。 吉野秀雄 は容貌魁偉の偉丈夫で、誰がみても、一見して、尋常な男ではないと思った。  はげしくて、きびしくて、おそろしい。 同時に、やさしくて、やわらかい のだ。 その前にいると、いつも春の日を浴びているようだった。 無限の抱 擁力を感じたという。 吉野秀雄があまりに魅力的だったので、すぐに授業と は別に短歌会が作られた。 その仲間に、のちに山口夫人となる、18歳、体 重60キロの治子(小説では夏子)さんがいた。

 吉野秀雄は慶應義塾理財科予科に学んだが、肺患のため中退、以後長く療養 生活を送った。 最初の夫人はつは、第二次大戦の激化しはじめた昭和19年 夏、胃病のため4人の子を残して42歳で亡くなる。 『寒蝉集』(昭和22 年)所収の亡妻追慕の連作悲歌は名高い。

 「病む妻の足頚にぎり昼寝する末の子をみれば死なしめがたし」   

  「亡骸(なきがら)にとりつきて叫ぶをさならよ母を死なしめて申訳もなし」

 そして、死の前夜の、生命の極みの、厳粛な事実を詠んだ勇気ある歌。

   「これやこの一期(いちご)のいのち炎立(ほむらだ)ちせよと迫りし吾妹 (わぎも)よ吾妹」

 その年の暮、亡きキリスト教詩人八木重吉の妻だった八木登美子が子供達の 教育のために吉野家に来た。 山口さんが吉野家に出入りするようになった昭 和21年から、吉野と登美子の恋愛と、瞳さんと治子さんの若い恋が併行して 進むことになる。 翌年の再婚後、吉野は登美子を通じて知った八木重吉への 敬愛から、重吉の定本詩集や新発見の詩稿による新詩集を編集刊行した。 今 日重吉の詩が広く知られるになったのは、そのためである。

   「末の子が母よ母よと呼ぶきけばその亡き母の魂(たま)も浮ばむ」 

    「重吉の妻なりしいまのわが妻よためらはずその墓に手を置け」