『モリのいる場所』の樹木希林2018/06/11 07:02

 落語研究会の翌日、シネスイッチ銀座で午前10時10分からの『モリのいる 場所』を観た。 近年、映画はシネコンの朝一番を観ることが多いので、だい たい空いている。 ところが『モリのいる場所』は「満員御礼」の広告通り、 満席だった。 ほとんどが年輩の女性で、白髪が目立つ。 映画は、やはり満 員の方が、観た甲斐があるような気がするものだ。

 6月25日の「等々力短信」第1107号「熊谷守一と信時潔」に書いたように、 あらかじめ「日曜美術館」の「熊谷守一の世界」のビデオと、豊島区立熊谷守 一美術館の「熊谷守一美術館33周年展」を見たのは、正解だった。 沖田修 一監督の映画をいきなり観ても、熊谷守一のことや、どんな絵を描いたかを知 っている人でなければ、何だかよくわからないのでないだろうか。

 冒頭、展覧会場で林与一(まだいるんだ、と思ったら、私の一つ下だった。 ヒェッ!)演じる昭和天皇が、「これは……何歳の子供の描いた絵ですか?」と 尋ねる。 説明役の美術館長(?)は、おたおたして、三列目ぐらいにいる侍 従長か誰かに、何と答えたらいいのか、訊きに行く。 絵はチラッとしか出な いが、熊谷守一の《伸餅(のしもち)》、三つの白い楕円形(三枚の伸餅)の上 に、熊谷家で使っていた柄のない錆びた菜っ切り包丁がのっている。

 映画は、熊谷家の昭和49(1974)年の夏の一日を描く。(私が「等々力短信」 の前身のハガキ通信「広尾短信」を始める半年ほど前になる。ちなみに沖田修 一監督は昭和52(1977)年生まれだそうだから、まだ生まれていない。) 熊 谷守一94歳(山崎努(81))、妻・秀子76歳(樹木希林(75))。 秀子の姪・ 美恵(池谷のぶえ)が、台所の外の七輪でアジの開きを焼いているが、脂がジ ュクジュク出て旨そうだ。 美恵は焼きながら、ジュリー・沢田研二の「危険 なふたり」を口ずさむが、池谷のぶえ(朝ドラ『半分、青い。』では鈴愛の幼馴 染・菜生の母役)はこの曲を知らなかったそうだ(昭和46(1971)年生れだ から、当然か)。

 食事になると、熊谷守一のモリは、歯がないらしく、肉を鋏で切ったり、ウ ィンナーをキャンバスを張るペンチでプチンとつぶしたりする。 プチンとや るたびに、妻と姪は何も言わず、さりげなく飛沫を避ける。

 食事が終ると、モリは下駄を履き、両手で杖をついて、出かける。 洗濯物 を干している妻は、「行ってらっしゃい、お気をつけて」と言うのだ。 モリの 行く先は、ほかでもない、庭である。 樹木希林のさりげない感じがとてもい い。 モリは、地面に寝そべったり、庭のあちこちに置いてある切り株などの 腰掛けに座って、蟻や虫を観察したり、拾った石をじっと見つめていたりする。  蟻はじっと見ていると、左の二番目の足から動き出すことに、気付くのだそう だ。

 文化勲章を授与するという電話がかかってくる。 樹木希林が出て、モリに ちょっと聞いて、「ああ、いらないそうですよ」って、切ってしまう。

 2日の日記に、福井淳子さんの『いのちへのまなざし―熊谷守一評伝』(求龍 堂)から、福井さんがすでに老夫婦だったお二人に会った印象を引いていた。  「秀子は守一に、作品の気に入った点、分からない点など、女学生のように率 直に遠慮なく口にする一方で、終始守一を気遣っていて、傍で見ていてもほほ えましい雰囲気があった。 また、守一も、秀子の遠慮ない物言いを笑って受 け流しながら、秀子の体調をいつも心にかけていて、いたわっている様子が伝 わった」。  樹木希林は可愛らしく、見事にその秀子の姿を演じた。 そして、山崎努も 守一「モリ」を、黙々と…。

さりげないユーモアが支える99分2018/06/12 07:15

 映画『モリのいる場所』の熊谷家の一日を描いた1時間39分は、けして退 屈ではない、それを支えるのは、さりげないユーモアだ。 熊谷守一(山崎努) は、妻・秀子(樹木希林)と碁を打つ。 守一が長考し、その間雑誌か何かを 読んでいた秀子は、ささっと指して、相手の石を取る。 

 熊谷家の守一手書きの表札は、たびたび盗まれる。 今日もまた、郵便配達 が、姪の美恵の所に知らせに来た。 美恵は、郵便配達の顔を上目遣いに見な がら言う、「あんたが盗るんじゃないでしょうね」。

文化勲章の電話もそうだが、訪問客の矢面に立つのは、秀子である。 近所 でマンションを建設中の、オーナー(剣道着か何かを着ていて、オーナーらし くないので、誰なのかと思った)と現場監督が、熊谷家の塀の建設反対の看板 (守一を尊敬する美大生たちが立てかけた)を外してくれと抗議に来る。 現 場監督をやっているのが、大河ドラマ『西郷どん』で「国父」島津久光の青木 崇高。 守一は出かけているといわれて(守一は外出しないことに、近所の人 が知らないのは粗忽だが)、秀子と話し合っている内に、小便がしたくなって トイレに行くと、守一が入っている。 それで守一に、実は妻に言われて来た のだがと、設計図を入れる筒から出した子供の絵を見てもらう。 丸がいっぱ い描いてある、何を描いたのか分からない絵だ。 自分は判らないのだが、妻 は「天才だ」と言っている、と。 守一は、「下手だ……下手でいい。下手も絵 のうちです」と、言う。

 信州の温泉旅館「雲水館」の主人(光石研)が看板に、守一の書をもらおう と、目止めをした檜の板を担いでやって来る。 秀子が、庭にいる守一に聞く と、案外簡単に、書くと言う。 そこにいた画商たちや写真家などがみんなで 見守る。 横書きで「雲水館」と書いてもらうつもりだったのだが、守一は板 を縦にして、書き始める。 書いた字は、「無一物」だった。

映画と実際、虚実のあわい2018/06/13 06:38

「豊島区立 熊谷守一美術館だより」2018年春号vol.52に、熊谷守一次女の 榧館長(89)が、映画『モリのいる場所』について書いている。

脚本を最後まで読ませてもらう条件で、映画にする話を承諾した。 脚本が 届いて、事実と違うところや、モリが絶対に言わないセリフなどがあったので、 何度か手紙を出した。 撮影の前に、沖田修一監督が訪れ、出来れば大きな修 正をしないまま作らせて欲しい、映画はドキュメンタリーでなくフィクション だということを理解して欲しい、という丁寧な説明を受けた。 結局は、榧さ んがどうしてもというところ以外は、沖田監督が最初に書いた脚本に近い感じ で撮られたという。

モリのことを好きだという山崎努さんは、顔の感じや着ているものを良く似 せていた。 母は、樹木希林さんみたいに聡明でなくて、女学生のまま婆さん になったような人だったから……、希林さんの方が素敵だった。 アトリエな どはよく再現されていたけれど、庭と家の中は、あんなに広くない。 モリは 人が好きだったんだけど、家に男の人をあげるのを嫌った。 どんなに仲が良 くても、信時潔さんですら家に泊めたことがない。 だから映画にあったよう に、知らない男が大勢うちの居間で夕食するってことは、まず考えられない。  家の敷地から一歩も出られなくなったのは最後の数年だし、母方の姪の恵美ち ゃんも、映画とちがって本当はとてもおとなしい性格だった。

あくまで映画は映画。 心配なのは、エピソードや会話がすべて事実に忠実 だと誤解されないかということ。 勲章内示の電話のくだりなんかは、特にね。 映画に関わった多くの方の、心に描いた[熊谷守一]が、ひとつの作品となっ ているので、それを楽しんでいただければいいかなと思う。

私も、まったく同感である。 沖田修一監督と、そのスタッフ、キャストは、 [熊谷守一]という画家の世界「モリのいる場所」の雰囲気を、一本の映画に つくりあげた。 テレビドラマでは、「このドラマはフィクションです」という お断わりが出る。 それとは、ちょっと意味が違うけれど、この映画もフィク ションである。 その証拠に、深海に棲むチョウチンアンコウのように、額に 生えたものの先に光を灯した、見知らぬ謎の男(昼間も家に来ていた)が登場 して、モリに「この狭い庭から外へ出て、広い宇宙へ行きたいとは思いません か?」などと、尋ねるのだ。 そういえば、警視庁のマスコット「ピーポくん」 も、額に生えたものの先に光を灯しているが、あれは世の中を照らしているの ではなく、世の中の動きをキャッチするアンテナらしい。

横浜初等部で信時潔についてのレクチャーを聴く2018/06/14 07:13

 信時潔と、彼の作曲した「慶應義塾塾歌」については、2012年のこの日記に いろいろ書いていた。 改めて読んだら、信時潔の作曲した数々の作品や、信 時潔と福沢諭吉の生誕地が大阪の堂島川を挟んだ対岸にあることなどにも触れ ていた。

ベオグラードに響いた信時潔の「塾歌」<小人閑居日記 2012. 6. 18.>

「『塾歌』から見えてきた『信時潔』」<小人閑居日記 2012. 6. 19.>

「大学教授 与謝野寛―「幻の塾歌」の周辺―」<小人閑居日記 2012. 6. 20.>

西国分寺に響いた信時潔の「塾歌」<小人閑居日記 2012. 12. 14.>

「海ゆかば」と信時潔<小人閑居日記 2012. 12. 15.>

 6月9日、慶應義塾横浜初等部で「信時潔旧蔵ピアノとリードオルガン修復 記念レクチャーコンサート」があり、青葉三田会のご縁で聴く機会を得た。 信 時潔の孫(次男の息子だそうだ)の信時茂さんが横浜初等部教員で、まず挨拶 をした。 『三田評論』2017年5月号「丘の上」に書かれた「祖父のピアノ」 によると、2017年2月に、国分寺市にある信時潔が関東大震災の翌大正13 (1924)年から亡くなるまで40年ほど住んだ築90年を超す家が取り壊され、 そこにあったピアノとリードオルガンが山内慶太前初等部長の勧めで初等部へ 寄贈、修復されることになったのだそうだ。 レクチャーと解説も孫の信時裕 子さん(三男の娘だそうだ)、長年祖父・信時潔を調査研究し、東京音楽大学(私 立)図書館司書、日本音楽学会会員、2009年に信時潔の自筆譜や蔵書、楽譜等 が東京藝術大学付属図書館に寄贈された際には、科研費助成事業「信時潔に関 する基礎研究」の研究員として同館・信時潔文庫の資料整理、目録作成を担当 したという。

 レクチャーは、信時潔が明治20(1887)年、大阪北教会の牧師吉岡弘毅の 三男として生れ、高知教会(1歳~6歳)、京都室町教会(6歳~9歳)をへて、 大阪北教会に戻り、11歳で北教会の長老のひとり、信時義政の養子になったこ とから始まった。 教会に親しんだ幼時の生活が洋楽への道を拓き、オルガン と讃美歌とともに育つ。 大阪の市岡中学から、明治38(1905)年東京音楽 学校の入学試験は当時唱歌を歌うだけで、合格、チェロを専攻、チェロの先生 はいなくて本で勉強した(それで指の持ち方が違う)。 チェロの第一人者とい われた時期があって、大正13(1924)年のベートーベン第九の初演ではチェ ロのトップを務めている。 明治43(1910)年に研究科器楽部に進学、さら に作曲部で学んで大正4(1915)年修了(9年とちょっと学生だった)、助教授 に就任した。 大正9(1920)年ベルリンに留学、ゲオルク・シューマン(有 名なロベルト・シューマンとは別人)に師事、作曲(合唱曲「あかがり」はド イツで作曲。自筆譜が東京藝術大学付属図書館・信時潔文庫の貴重楽譜データ ベースで公開されているので、ネットで見られる)、合唱団指導などを学んだ。  帰国後、大正12(1923)年1月東京音楽学校甲種師範科卒で熊谷女学校教員 の白坂ミイと結婚、この年教授となる。 ミイ夫人は、作曲した楽譜の清書を し、秘書のような役割を果たした。 信時家のリードオルガンは、ミイ夫人が 弾いていたものらしい。 信時潔は、昭和6(1931)年東京音楽学校本科作曲 部の創設に尽力し、実現。 昭和7(1932)年、教授を辞任して講師となり(例 のないことで、事務仕事が苦手だったかららしい、以後作曲等に注力できた)、 定年まで週に一回は通った。 合唱、管弦楽団の指導、唱歌編纂にも関わる。  昭和7年、『新訂 尋常唱歌集』編纂の代表者となり、「秋の山」「一番星見つけ た」「公孫樹」「遠足」「影法師」「雁」「電車ごっこ」「動物園」「夏の月」「兵隊 さん」「ポプラ」「森の歌」「鷲」を作曲した。

信時潔旧蔵のピアノとリードオルガン2018/06/15 07:05

 信時潔が作曲に使っていたこのピアノは、信時家の玄関を入ってすぐ、家の ほぼ中央の十畳ほどの畳の部屋にあって、奥につづく庭に出られるサンルーム 側に、ピアノとオルガンが置かれ、中央の壁際に大きな書き物机、一方の壁に は天井までガラス戸のついた造り付けの木の棚に大量の楽譜や本が仕舞われて いたという。 作曲中の写真には、譜面を鉛筆で書いていて、鍵盤の上に消し ゴムが写っている。 留学中、マルクの大暴落があって、大量の楽譜が買えた のだそうだ。

 スタインウェイ社製のアップライトピアノで、昭和15(1940)年アメリカ で園芸(ツツジ、椿)で大成功した知人、清野主(つかさ)氏に贈られた中古 品だったという。 修復した太田垣至さんのレポートによると、Model-R(ハ ンブルグ工場製)か Model-I(ニユーヨーク製)と推測され、最も大きいタイ プの最上級機種で、豪華客船タイタニック号にも5台のスタインウェイ社製の ピアノがあったが、そのうち2台がModel-Rのアップライトで、ファーストク ラスで用いられていたという。 歴史的価値の高い、信時潔旧蔵のピアノの修 復には、できる限りオリジナルの部品の素材に近いものを厳選し使用した。 フ ェルト類は、楽器修復家G.ウォーカー氏による100%ピュアウール、皮革類は 皮鞣し職人P.ケンドルバッヒャー氏による鹿革を用いたそうだ。

 オルガンを修復された伊藤信夫さんからは直接、解説を聴くことができた。  昭和8(1933)年神田生まれ、慶應義塾幼稚舎から、大学経済学部を卒業、東 京日産販売に入社したそうで、20年ほど前から奥様の弾くリードオルガンの不 調を直す内に、オルガンの修理・修復をするようになったという。 2017年の 信時潔旧蔵リードオルガンは68台目の修復で、その前年には慶應義塾日吉チ ャペルのリードオルガン(47台目)も修復、現在76台目に取り掛かっている。  信時家のリードオルガンは、YAMAHA製、ミイ夫人の大正12(1923)年の嫁 入り道具だったのだろう。 アメリカにベル・オルガンピアノ・カンパニーと いう会社があるが、第一次世界大戦(1914~1918)を境にして、ベル・ピアノ オルガン・カンパニーと改名した。 オルガンには、パイプオルガン、リード オルガン、電子オルガンの三種がある。 パイプオルガンと、リードオルガン は、悪くなったフェルト、皮、ゴム布を取り替えることで再生が可能、100年 でも、200年でも保つ。 電子オルガンは粗大ごみになる、そうだ。