日本の「窓」ヨコハマ(2)〔昔、書いた福沢110-2〕2019/09/07 07:04

 大桟橋入口、旧英国領事館跡の横浜開港資料館に到着。 土橋俊一先生、福 沢美和さん(今回も盲導犬ナッキーとご一緒)を始めとする横浜参加の皆さん と合流する。 講堂で調査研究員の吉良芳恵さんから、横浜開港資料館の特徴 と、吉良さんが中心になって研究企画された開催中の展示「トワンテ山とフラ ンス山―幕末の横浜山手―英仏駐屯軍の四千二百日」について説明を受ける。  開港資料館の中庭には、タブの一種、玉楠の木がある。 ペリー艦隊に同行し た画家ハイネが描いた石版画「ペリー横浜上陸の図」の、右側に描かれている のが、この玉楠なのだそうだ。 横浜の歴史をずっと見つめ続けてきたこの木 は、資料館の宝物だという。 この時、アメリカ側は、派手な制服に立派な体 躯の楽隊を揃え、縦隊にして海岸からゆっくりと行進させた。 幕府側が相撲 の力士を並べて、対抗しているのが面白い(加藤祐三著『黒船異変』岩波新書)。

 そこで特別展「トワンテ山とフランス山」だが、イギリスとフランスは、文 久2年(1862)に起きた生麦事件の翌年から明治8年(1875)までの12年間、 居留民保護・居留地防衛のため、横浜山手に軍隊を駐屯させた。 外国軍隊の 駐屯という事態に対し、幕府と明治政府は粘り強い外交交渉を続け、ようやく 明治も8年に至って主権を回復することができたという。 恥ずかしながら私 は、この事実を初めて知った。 現在の「港の見える丘公園」一帯は英第二十 連隊の陣地があったことからトワンテ(トゥウェンティ)山と呼ばれ、現在の フランス山にはフランス軍が駐留していた。 幕府の横浜居留地囲い込みの意 図も、圧倒的な軍事力の前には、簡単に破られてしまったことになる。 横浜 居留民の数をはるかに上回る英仏軍隊の駐屯は、生麦事件と同じ年に洋式軍制 の導入を決めた幕府にとって、恰好の教師になったのを始め、日本人社会にさ まざまな影響をもたらした。 居留地では幕末から『ジャパン・ヘラルド』『ジ ャパン・ガゼット』『ジャパン・タイムズ』など欧字新聞が数紙日刊で刊行され ていた。 日本の近代ジャーナリズムの始まりであり、福沢や寺島宗則、陸奥 宗光らの若手が翻訳して、幕府の重要な情報源でもあった。 それは明治3年 日本初の日刊新聞『横浜毎日新聞』の創刊にもつながる。 横浜開港資料館は、 これらの新聞や当時のディレクトリー(人名住所録)を収集し、複製印刷物の 形で閲覧、コピーにも応じている。 横浜は、幕末の開港から、明治の文明開 化の時期を通じて、世界に開かれた日本の窓であった。 この日刊新聞を始め、 電信、ペンキ塗り、クリーニング、アイスクリーム、理容、救急、西洋歯科医 学、写真館、西洋野菜、鉄橋、洋式公園、近代街路樹、石鹸製造その他多くの 分野で、横浜は日本の先駆けとなったのである。

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