議会や世論は反戦・反ファッショの主張を放棄していなかった2020/11/05 07:08

 坂野潤治さんは、満州事変の教訓をこう述べる。 都市民衆や議会勢力が民主化を求めて活動している時には、中国への勢力拡大は停止する。 また、これらの「立憲勢力」は、戦争が勃発する前日までは、反戦的もしくは厭戦的だ。 しかし、戦争一般ではなく、中国への軍事的進出を抑えるには、世論や議会ではなく、国防・対外大権を握れる「内閣」を取っていなければならない。 それでも「帝国」化が防ぎ切れない時もあるが、内閣を取っていなければ侵略戦争を事前に抑える手段はない。

 そうだとすれば、1932(昭和7)年の5・15事件のテロで犬養毅の政友会内閣が辞職して以後、1945年8月の敗戦までの13年間、政党内閣は一度もできなかったのだから、「立憲」が「帝国」を抑えた「画期」など存在するはずがなかったことになる。 しかし、これはあくまでも結果から見た話で、当時の人々が満州事変で「帝国」批判を諦め、5・15事件で政党内閣に見切りをつけてしまったわけではない。 さらに言えば、4年近く後1936(昭和11)年の規模の大きなクーデター2・26事件の後でも、議会や世論は反戦・反ファッショの主張を放棄したわけではなかった。

 1936年2月20日の第19回総選挙で政友会を破って第一党に返り咲いた民政党は、その6日後の青年将校の反乱の後も、反戦・反軍国主義の旗を降ろさなかった。 同年5月の斎藤隆夫の「粛軍演説」は有名だ。 民政党と政友会の反戦・反ファッショの声に押されて、両党内部と陸軍の一部に支持者を持つ宇垣一成内閣が構想されるが、組閣の大命をもらった宇垣に対し、陸軍が後任陸相を推薦せず流産した。 坂野潤治さんは、いくつかの著書で、それでも1937(昭和12)年7月7日の日中戦争勃発までは、民主化をめざす各勢力の活動はむしろ拡大していたことを強調してきたという。 同年4月30日の第20回総選挙での社会大衆党の議席倍増や、5月から6月にかけての市会議員選挙での同党の躍進に注目したのだ。 合法社会主義政党である社会大衆党は、軍部と提携して国家改造をめざす「広義国防」を唱えていた。 労働者や貧農を救済する、今日の言葉でいえば、格差是正と軍備の充実を結びつけようという立場だった。