文耕、板倉修理の殿中刃傷事件を語る ― 2024/09/21 07:06
江戸の庶民は、板倉修理が殿中で刃傷沙汰に及んだ事件を、噂話としては知っていた。 斬られたのが熊本城主の細川越中守で、斬ったのが旗本の板倉修理であることも伝わっていた。 狂歌「板倉に小便所にてしかけられ越中ふどしはづしかねたり」で、越中ふどしは越中褌(ふんどし)、細川越中守は用を足す前に斬られたことになっている。 「細川の深き手疵(てきず)に板倉や修理をはしょって逃げる雪隠」は、板倉修理が斬ったはいいが、慌てふためき、雪隠、厠に逃げ隠れてしまったことを嗤っている。
だが、江戸の庶民も、武家社会でも、はっきりしたことはわからなかった。 文耕は、読み知ったり、聞き知ったりしたことをつなぎ合わせ、因果関係の道筋をつけながら語っていった。 板倉修理は七千石の旗本だが、気性が荒く短気で、小さなことに腹を立て、家臣を手討ちにするなどと言い出すことが立て続けに起きた。 忠義の家老、前島林右衛門が諫言したが、それにも激しく腹を立て、手討ちにすると刀に手をかけたが、周りにいた者たちが家老を逃がし、事なきを得た。 林右衛門は、このままではいつか家を滅ぼすと、一族の旗頭、若年寄の板倉佐渡守から養子を貰い受け、跡目を相続させることを考えた。 その工作を察知した修理は、憎き奴、縛り首にしてくれようと怒り狂った。 林右衛門は、それを知り、忠義もこれまでとすべてを諦め、家族を連れてどこかへと立ち去ってしまった。
八月一日は、家康公が初めて江戸城に入った記念日で、白帷子に長袴の大名たちが登城して、将軍家に祝辞を述べる。 板倉修理も、将軍家重公へのお目通りが叶い、すべてが順調に終わり、城内でしばし板倉佐渡守と歓談することになった。 最初のうちはよかったのだが、佐渡守が前島林右衛門のことを持ち出すと、修理は激高し、脇差に手をかけんばかりになった。 佐渡守は呆れ、奥の間に退去したが、夜になって修理家の家老加藤宇左衛門を屋敷に呼んで、今日は自分だからよかった、他人にあのような振る舞いをすれば、一族に多大の迷惑が及ぶ、登城はもとより外出は一切禁止せよと告げた。 それを聞いた修理は、自分の倅ひとりをこの家の跡取りにさせたいがための佐渡守の奸計、許すまじ、と頭に血を上らせたが、その気ぶりを見せずに宇左衛門に告げた。 佐渡守殿の言葉に逆らうことはできない、おとなしく隠居して、家督を譲ることにしよう。 だが、その前に、ひとつだけ叶えたい夢がある。 近代の賢君たる吉宗公に御目見得していないことが心残りだ、来たる十五日の月次(つきなみ)御礼、定例の登城の際、西の丸に罷り出て、わずかでよいから御目見得ができれば満足だ。 さすれば、以後、どこにも出掛けず、そのまま隠居するであろう。 修理の生まれた時からの養育係、宇左衛門はなにかにつけ甘く、主人の最後の望みを叶えてあげたいと、佐渡守の言いつけに背き、登城を許してしまった。
十五日の月次御礼に登城した板倉修理は、吉宗公に御目見得するために西の丸へ向かうどころか、板倉佐渡守の姿を求めて城中をうろつきはじめた。 一方、月次御礼に登城した細川越中守、城内の座敷にひかえていたが、不意に便意を催し、御城坊主の案内に従い、湯呑所に近い厠に入った。 用を足し、出てきて手を洗っていると、そこに、板倉修理がやって来た。 そこは暗い城内でも、ひときわ薄暗いところだった。 越中守の後ろ姿を眼にした修理は、礼服の九曜(くよう)の紋から、ついに板倉佐渡守を見つけたと勘違いしてしまった。 細川の九曜星の紋を、板倉の九曜巴(ともえ)の紋と見間違えたのだ。
板倉修理は、脇差を抜くと、一声叫んで背中を斬りつけた。 細川越中守が振り返ったところを、さらに斬りつけ、眉間を打ち割った。 さらに何太刀も斬り重ねた。
どうと倒れると、お伴の御城坊主は恐怖で逃げ去り、ひとり残された修理は、ようやく人違いだったことに気がついた。 しばらくして、事切れている細川越中守が発見された。 城内は大騒ぎになり、やがて厠に隠れていた板倉修理が見つかり、その哀れな姿によって、乱心による刃傷と判断されることになる。 板倉修理は水野監物の屋敷に預けられ、細川越中守の死が公になると同時に、切腹させられた。
馬場文耕が、この一件を語ると、客は自分たちが暮らしている町と地続きのところに起きた身近なこととして、また、本来自分たちは知り得ない奥の奥の話を聞くことができているという気持の高ぶりから、世話物以上に興味深く聞いてくれているように思えた。 強い手応えのようなものを覚えたのである。
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