薩摩藩邸焼討事件と西郷・勝の談判2008/04/17 07:14

 江戸の薩摩屋敷が、次に歴史に登場するのは、約10年後の幕末の動乱であ る。 薩摩の益満休之助らによる江戸市中攪乱に堪忍袋の緒を切った幕府は、 慶應3(1867)年12月25日、市中警護の荘内・上ノ山・鯖江・岩槻の各藩兵 二千で、薩摩藩邸を焼き討ちした。 この事件が明治維新戦争の発端となった。  俵元昭さんの『港区史散歩』(学生社)には「上屋敷」、跡地が「薩摩ッ原」と 呼ばれて、電車の停留場名にもなっていたとある(私も、芝に育った父があの 辺を「薩摩ッ原」と言っていたのを聞いている)。 現在のNEC本社のあたり、 昨日みた「芝屋敷」にあたる。

 翌慶應4(1868)年3月、15日の江戸城総攻撃を前に、西郷隆盛と勝海舟の 会談が行われたのも薩摩屋敷である。 諸説あるが、俵元昭さんの『港区史散 歩』によると、13日の第一回会談(万一戦争になった時の和宮の処置が話し合 われただけ←松浦玲『勝海舟』中公新書)は薩摩藩下屋敷、昨日みたホテルパ シフィック東京の所「高輪屋敷」で行われ、重要な14日の第二回会談は薩摩 藩蔵屋敷(正確には蔵屋敷門前の抱(かかえ)屋敷という薩摩藩が買い求めた町 家)で行われた。 第二回会談の場所は、田町駅近くの第一京浜国道沿い森永 製菓と三菱自動車の間で、学生時代からよくその記念碑(芝5丁目33-11)を 見ていた。 日本史上のハイライト、日本を植民地化の危機から救った江戸無 血開城は、あそこで決まったのである。 松浦玲さんの『勝海舟』には、征東 軍の沙汰書よりも寛大な処置を求めた勝の嘆願書を西郷が受け入れたのには、 イギリス公使パークスの側面からの圧力があった、とある。