13代将軍家定はバカ殿か?2008/04/20 07:38

 大河ドラマで13代将軍家定(堺雅人)は、炒り豆を炒り方にだけ関心があ るバカ殿に描かれている。 斉彬だけは、参勤交代道中の長い薩摩は、沿道の 諸藩の事情にくわしいなと耳打ちされたので、若干の疑いを持っている。

 実際はどうであったのか、畑尚子さんの『幕末の大奥』で、見てみる。 安 政5(1858)年4月23日、大老に就任した井伊直弼は、26日にも家定に召さ れて政務について談じ、「世情の風説と違い中々御聡明に渉(わた)らせられ候」 と印象を述べている、という。

 この二か月前の2月26日、御台所敬子(篤姫)は養父近衛忠煕に、将軍継 嗣について降勅を下されないようにしてほしいという内容の書簡を出す。 28 日付でつぼね(幾島)は、敬子の書状は自らの意思で書いたものでなく、家定 を養育した上臈御年寄歌橋などに吹き込まれたからであると近衛家に弁明する。  5月2日、近衛忠煕から敬子宛の書状が届き、それには家定宛の一封も添えら れていた。 その返事に、敬子は、多忙な家定の様子を見ていると、忠煕から の書面の通りには申し上げにくく、私もいろいろと考え心配している、と書い ている。 安政5年2月から6月に重ねられた敬子と忠煕の書簡の往復には、 家定からの、あるいは家定宛の書状が添えられていたことがわかっている。 し かし、家定の書状は残されていない、のだそうだ。

 敬子と家定の夫婦関係は睦まじく、世継ぎ誕生の期待も高まった。 しかし、 結婚生活は家定の逝去によりわずか一年半で幕を閉じる。 困難な政局が多病 な家定に負担をかけたことは容易に推察できる、という。