社員数・編集局員数と「福沢の時事新報」2008/04/24 07:11

 そこで西川俊作先生が推計された時事新報の社員数だが、明治23年から34 年までをグラフにしたものが、当日の資料の中にあった。 社員数(年初)は、 明治23年の30名から、24~26年は40名あたり、27~29年が50名近辺、29 年に福沢は経営を次男捨次郎に譲り、捨次郎が拡張政策をとったので、毎年増 えて、33~34年には90名台に達している。 当時の「社員」とは、ホワイト カラーの職種をいい、工場(ブルーカラー)の人は「社員」といわず「雇い」 といっていた。 この区別は戦後民主主義でなくなり、ホワイトカラーもブル ーカラーも、おしなべて「社員」になった。 それをアメリカ人が日本経済成 功の秘密とみた、という。

 そのグラフには社員数と一緒に、明治24年から30年までの編集局員数(前 年末)が表示されている。 『福澤諭吉全集』21巻所収の福沢自筆の「時事新 報社員賞與記録」に依っている。 その人数は、日清戦争の27年だけが30名 と突出しているだけで、20名前後で推移し、捨次郎が社長になった30年に急 に40名に増えている。 全体として編集局員数は、年賀欠礼広告に名を連ね た社員数の半分ぐらいになっている。

『福澤諭吉年鑑33』(2006年・福澤諭吉協会)所収の西川俊作先生の論文「時 事新報社主 福澤諭吉」によって、<小人閑居日記 2007.5.31.>「給料を袋 詰めする福沢諭吉」に書いたように、時事新報社とは言っているものの、福沢 諭吉の個人企業で、主筆で社主(オーナー)、文字通り「福沢の時事新報」であ った。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2007/05/31/1545424

 福沢は社員の給料と年二回の賞与を実力主義の能力給として査定するととも に、現金流動性を保てるように自分の受け取る利潤でバランスを取りつつ、巧 みな資金運用を行っていたという。