安政5年・1858年<等々力短信 第986号 2008.4.25.>2008/04/25 08:08

 安政5(1858)年は、激動の年である。 幕末の動乱はこの年から始まる。  病弱な13代徳川家定の後継を、一橋慶喜にするか、紀伊の慶福(よしとみ) にするかという問題で、越前の松平慶永(春嶽)(親藩なので交渉役)と、薩摩の島津斉彬、土佐の山内 豊信(容堂)、宇和島の伊達宗城らの外様有力諸侯は、英邁な慶喜を将軍にして 国内改革をした上、開国による富国強兵策をとることを考えていた。 1月、 前年末にまとまった日米修好通商条約の勅許を得るため、幕府は最高責任者・ 筆頭老中の堀田正睦を京都に派遣した。 だが京都の空気は、外国人に対する 異常な嫌悪と恐怖、攘夷にこりかたまっており、将軍継嗣問題がそれにからん で、交渉は難航3か月に及び、条約勅許に失敗する。 堀田が江戸に帰着して 三日目の4月23日、反一橋派(南紀派)の手で画策された保守派譜代大名筆 頭・井伊直弼の大老就任が発表される。 井伊は6月21日、日米修好通商条 約の調印を断行、勅許を得ずに調印した責任を老中堀田に転嫁し、解職する。  6月25日には、将軍継嗣も慶福(家茂)とすることを発表する。 篤姫を家定 の御台所に送り込み、慶喜の擁立を計ってきた島津斉彬、松平慶永らの企図は、 ここに挫折した。 そして7月6日には将軍家定が、16日には斉彬が死去する。  幕府は7月から9月にかけ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通 商条約を締結した。 井伊大老は、徳川斉昭と松平慶永を処罰し、一橋派官僚 を相次いで左遷する。 8月、水戸藩への幕府改造の密勅降下が発覚、反大老 派は京都の力をかりて幕府に圧力を加えようとしたため、9月、大老の反対派 弾圧が京都の公卿側近にまで及ぶ「安政の大獄」が始まった。

 大坂の緒方洪庵の適塾にいた福沢諭吉は、10月中旬、中津藩江戸藩邸の上士 岡見彦三に呼ばれて、蘭学の塾を始めるために江戸に着く。 福沢は数え年25 歳、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に開かれたこの塾が、今年創立150年を迎えた 慶應義塾の始まりである。 東急東横線に今「日仏こうゆう150年」という電 車が走っている。 今年2008年は、上に書いたすべての出来事の150年記念 の年にあたる。 1958(昭和33)年、高校2年生の新聞部員だった私は、11 月14日発行の『慶應義塾志木高新聞』第6号「百年祭記念号」に「義塾百年 のクライマックス“慶應の新しい出発点”」という大見出しを立てた。 あれか ら、あっという間の50年だ。 その50年の物差しを一つ、二つと伸ばしただ けで、安政5(1858)年の日本を歩いていることになる。

昭和29(1954)年の寄席の写真2008/04/25 08:10

 カメラマン金子桂三さんが昭和35(1960)年から撮った『昭和 寄席の名人 たち』(三一書房)を、ちょうど11年前の「等々力短信」770号(1997.4.25.) で紹介した。 その時、こんなことを書いていた。  「鈴本の舞台に顎をのせて、漫談の大辻司朗を見ていたら「坊ちゃん、寄席 なんか退屈でしょ。かわいそうねぇ。お母さんの犠牲になって」とやられた。 場内爆笑で、顔から火が出た。それを忘れられないのは、大辻司朗がまもなく 日航機「もく星号」の大島三原山に激突した事故で亡くなったからだ。翼が発 見されたという誤報で、舞阪という地名を覚えた。救助された大辻司朗の談話 を載せた地方紙もあった。「もく星号」事故は「木」を「もく」と読めなかった 昭和27年4月9日のことだった。」

 昭和35(1960)年よりも、その昭和27(1952)年に近い、寄席の写真が現 れた。 昭和29(1954)年から翌30年にかけて、人形町末広の高座と噺家の 自宅を撮った写真家田島謹之助さんの作品で、その数は二千枚を超す。 立川 談志が思い出話をつけて、『談志絶倒 昭和落語家伝』(大和書房)という本にな った。 当たり前だが、円生も、文楽も、志ん生も、小さんも、みんな若い。  こちとらが、寄席の舞台に顎をのせるくらいの背格好の、ガキだった頃の師匠 たちだもの。