将軍家と島津家と近衛家2008/04/19 07:13

 畑尚子(ひさこ)さんの『幕末の大奥』で読んだ話。 島津家と将軍家との 関係は、5代将軍綱吉の養女竹姫が島津家22代継豊に嫁したことに始まる。  竹姫は江戸城大奥と薩摩藩奥向との重要なパイプ役を果す。 竹姫は十代前半 で藩主(25代)となった重豪(しげひで)を養育し、その正室を一橋家から迎 える。 竹姫の遺志によって、重豪の娘寔子(ただこ)は11代将軍家斉の御 台所となる(後の広大院)。 寔子は近衛経煕の養女となって家斉に嫁したが、 家斉の御代に生れた篤姫も、後にその先例にならうことになる。

 大河ドラマで松坂慶子のやっている幾島は、26代島津斉宣(なりのぶ)の娘 (27代斉興養女)で近衛忠煕(ドラマでは春風亭小朝)の正室となった郁君の 老女藤田であり、元々は島津家から付けられた女中であった。 郁君の死後、 隠居し得淨院と名乗っていた。 篤姫がもう江戸にいた嘉永7(1854)年斉彬 の世子虎寿丸が亡くなった時、ドラマと違いまだ京都にいて、形見分け覚帳に 「京都 得淨院」と名前が見えるそうだ。 安政3(1856)年4月14日篤姫 が正式に近衛家の養女となると、近衛家は幾島と名を改め篤姫付老女に任命す る。 利害関係が一致していた近衛家と島津家にとって、幾島は篤姫の単なる 世話役ではなく、将軍継嗣問題の大奥におけるパイプ役として期待されていた。  斉彬は幾島に、一橋慶喜を将軍継嗣にするために大奥と将軍家定の考えを集約 するという内命を与えていた。 「女丈夫とかいへる類にて、心逞しく肝太き 本性」(斉彬の政治的盟友、松平春嶽の家臣中根雪江の『昨夢紀事』)の幾島は、 大奥に入って「つぼね」となり、御台所敬子(すみこ=篤姫←近衛家養女にな って通称を篤君と改称、諱(いみな・実名)は敬子を賜った)が状況に応じて 判断を変えているのに比べると、いわば猪突猛進に斉彬の内命を実行しようと した、のだそうだ。