「福沢諭吉の近代化構想」その一2008/06/06 06:53

 落語研究会の翌日、5月30日は福澤研究センター開設25年記念講演会を三 田の北館ホールへ聴きに行った。 午後2時から6時まで、充実した三講演が 聴けた。 最初は寺崎修さん(武蔵野大学学長、3月まで慶應法学部教授・福 澤研究センター副所長)の「福沢諭吉の近代化構想」。 福沢の思い描いた近代 化日本を、天皇制・議会・内閣・地方制度を中心にまとめてくれて、たいへん 有益だった。

 ○天皇制…福沢は明治15年の『帝室論』で「帝室は政治社外のものなり」 と、帝室を政争の具に使うなと説き、帝室の役割を人の勧賞、学術技芸の奨励、 伝統文化の保存、社会福祉など、国民の人心を統合(収攬)する中心だとした。  それは戦後の新憲法の象徴天皇制とほとんど同じ考え方だった。

 ○議会…自由民権運動に対して、最初福沢は協力的だったが、明治10年以 降、運動の過激化に違和感を持ち、いきなり国会を開くのでなく、まずは地方 民会の充実と地方分権の確立をして、その代表が中央首府の大会議に出るべき だと説いた。(明治11年『通俗民権論』)  福沢の転換は早い。 明治11年9月愛国社という全国組織が再興され、自 由民権運動が拡大すると、福沢はもはや理屈ではない、早晩政府は国会を開か ざるを得ない状況に直面するだろうと判断、もっぱら国会を開けという議論を 展開するようになる。(明治11年『通俗国権論二編』)

「福沢諭吉の近代化構想」その二2008/06/07 07:06

 ○内閣…政府の変革を好むのは世界普通の人情だとして、世論の不満を解消 する三、四年での政権交代が国の安定を維持すると、イギリスモデルの議院内 閣制を説いた。(明治12年『民情一新』)

 最先端の自由民権運動の主張(例えば植木枝盛「日本国国憲案」明治14年) は、人民直選の議会に立法の権があるとしたが、行政権は日本皇帝にあるとし、 行政権に無関心だった。 政治論の中身は福沢の方がラディカルで、明治政府 にとってきつい側面があり、井上毅(こわし)など一部官僚はそれに気付いて 警戒を強めた。

 ○地方分権…明治10年の西南戦争後、福沢は『分権論』を書き、「政権」- 外交、軍事、徴税、貨幣発行など中央政府の権限(これは徹底的に中央集権化)、 「治権」-道路、警察、交通、学校、病院など一般の人民の周辺に存する権限、 この二つを峻別して、地方に出来ることは地方に、と説いた。 100年以上経 った現在、まだ議論中なのは情けない。 福沢はまた、地方への「分権」の議 論があれば、「分財」の議論も無ければならないと、権限の委譲にはその財政的 な裏づけが必要なことにも言及している。

 こうした福沢の「近代化構想」が説かれたのが、まだ太政官制度の時代だっ たのは、驚くべきことだ。 当時の政治情勢を批判する過程で、こうした構想 を示したのである。 これらはすべて、福沢の生前にはまったく実現されなか った。 福沢は日英同盟の必要も説いたが、その実現も生前ではない。 イギ リスモデルの議院内閣制は、明治の天皇主権の帝国憲法下では実現せず、戦後 の日本国憲法まで待たねばならなかった。 だが、二大政党制はようやく可能性が出て 来たところだし、地方分権に至っては先に見たように未だに入口の議論が続い ている状態だ。 100年前の福沢の提言で、まだ実現していないものが沢山あ る、と寺崎修さんは指摘した。

日本近代の基本線を一気に引いた福沢2008/06/08 06:46

 福澤研究センター開設25年記念講演会、つぎは松浦寿輝(ひさき)さんの 「福澤諭吉のアレゴリー的思考」だった。 松浦寿輝さんという方を、私は寡 聞にして知らなかった。 1954年東京生れ、東京大学大学院総合文化研究科教 授、フランス文学者、詩人、映画批評家、小説家。 1988年詩集『冬の本』で 高見順賞、1995年研究『エッフェル塔試論』で吉田秀和賞、2000年小説『花 腐し』で芥川賞を受けている。

 松浦寿輝さんは、フランス近現代の文学や文化を研究していて、19世紀後半 から世紀末までの時期に、広汎で大きな変化が起きたことに着目した。 例え ば1889年の万国博覧会の際に建設されたエッフェル塔は、景観に合わない奇 怪な建造物だと文化人などから猛反対の運動が起こり、近代的美意識の立場で 建設を支持する人々との間で論争になった。 日本ではどうだったかを調べる と、20年ぐらい遅れだろうという予想に反して、同じ頃(明治20年~30年) に地すべり的に近代化(西洋との同時進行性)が進み、そこで一番大きな存在 が福沢諭吉だった。 福沢は明治日本のペースメーカーの役割を果した。 天 才的な構想力と、抜群の文章能力、文章表現によって、福沢は日本の近代の基 本線を一気に引いてしまった。 1870年代に『学問のすゝめ』と『文明論之概 略』が書かれたのは、奇跡的な出来事で、僥倖だった。 福沢がいなければ近 代史は違う方向へ進んだだろう。

 それには福沢の文章の力が大きかった。 福沢はその知識と教養、幕末三度 の外国体験を駆使して、日本の現実に即して考え、漢文くずし体の平明達意の 名文を綴った。 それは知性と思考の産物だった。 書きたいことが透明に表 象され、ユーモア(余裕)があふれている。 あの文体にしか盛り込めないも のがあり、心地よい速度感に乗せられてしまう。 福沢にしか書けなかったあ の文章を、福沢はなぜ書けたのか、松浦寿輝さんの話はつづく。

福沢文章のすごみ、比喩の面白さ2008/06/09 06:31

 福沢を読み解く補助線として、松浦寿輝さんはドイツの哲学者ベンヤミン (1892-1940)の「アレゴリー」(寓意・寓喩)の概念を持ってくる。 ベンヤ ミンは論文『ドイツ悲劇の根源』で、「アレゴリー」と象徴(シンボル)を対比 し、近代的な美学が象徴のイメージの力を評価しているのを非難し、「アレゴリ ー」が文化的価値を持っているとした。 象徴は、平和と白鳩のように、空を 自由に飛ぶイメージから、有機的つながりがある。 「アレゴリー」は、似た 形象におきかえ、意味の体系で定まっている約束事。 例えば、正義の女神と 天秤ばかりのように。 牢固たるシステムで、揺るがない。 (『広辞苑』では、 寓意・寓喩…他の物事にかこつけて、それとなくある意味をほのめかすこと)

 松浦さんは、福沢文章のすごみを、この「アレゴリー」を分析ツールとして 読み解く。 比喩のすごさとうまさ、イメージの喚起、それは生産的な「アレ ゴリー」の実践だったのではないか、という。 『学問のすゝめ』から例を引 いて説明する。

 (1)単純な比喩

 第三編・第二条「独立の気力なき者は必ず人に依頼す」のところで、目上の 人に「其柔順なる事家に飼いたる痩犬の如し」(岩波文庫35頁)(「痩犬」は、 文人としての福沢の才能)

 第十三編「怨望の人間に害あるを論ず」、「元来人の性情に於て働に自由を得 ざれば其勢必ず他を怨望せざるを得ず、因果応報の明なるは、麦を蒔て麦の生 ずるが如し」(132頁)

 第十五編「事物を疑て取捨を断ずる事」、「異説争論の際に事物の真理を求る は、猶逆風に向て舟を行るが如し。其舟路を右にし又これを左にし、浪に激し 風に逆ひ、数十百里の海を経過するも、其直達の路を計れば進むこと僅に三五 里に過ぎず」「人事の進歩して真理に達するの路は、唯異説争論の際にまぎるの 一法あるのみ」(151頁)

ナンセンス的な面白さ2008/06/10 07:20

レトリシャン福沢の面白さは、ただ(1)単純な比喩にとどまらず、それが 自己増殖して、突っ走っていくところにある。 「アレゴリー」をたてつづけ に繰り出す文学者福沢は、日本語の富と力を自家薬籠中のものとして、人々を 説得した。 福沢の文学における地位を、過小評価してはいけない。

 (2)ナンセンス的な面白さ

 『学問のすゝめ』第十四編「心事の棚卸」では、自己増殖の突っ走りが一ペ ージ半にも及ぶ。 「貧は士の常、盡忠報国などとて、妄に百姓の米を喰ひ潰 して得意の色を為し、今日に至て事実に困る者は、舶来の小銃あるを知らずし て刀剣を仕入れ、一時の利を得て残品に後悔するが如し。和漢の古書のみを研 究して西洋日新の学を顧みず古を信じて疑はざりし者は、過ぎたる夏の景気を 忘れずして冬の差入りに蚊帷を買込むが如し。青年の書生未だ学問も熟せずし て遽に小官を求め一生の間等外に徘徊するは、半ば仕立たる衣服を質に入れて 流すが如し」(142-143頁)

 第十七編「人望論」の社交が大切だというところで、「偽君子を学で殊更に渋 き風を示すは、戸の入口に骸骨をぶら下げて門の前に棺桶を安置するが如し」 (177頁) そこまでは思いつかない、奇想天外の比喩だ。 自分自身面白が って、その面白さに引かれて書いている。