テレサ・テンと中国の民主化2010/06/07 06:53

 テレサ・テン(トウ(←トウ小平のトウ)麗君(デン・リーチュン))は、 1953年に台湾で生まれ、1995年に42歳の若さで突然タイで亡くなっているか ら、鈴木鐡矢君が収集と探索を始めた時には、死後10年を経ていた。 労作 が『遅いおっかけ、「テレサ・テン」』と題されている所以である。 テレサ・ テンは、台湾や香港、日本を中心とした東アジアで活躍し、絶大な人気を誇っ て「アジアの歌姫」と呼ばれた。 生涯にリリースした曲は約1,000曲、北京 語、福建語、広東語、英語、日本語を駆使し、日本語曲は250曲という。 私 などは「時の流れに身をまかせ」(1986年)しか知らないが、その前の「つぐ ない」「愛人」と合せ、全日本有線放送大賞を三年連続で受賞している。 日本 では演歌歌手のイメージが強いが、かなり幅広いジャンルの歌を歌っているそ うだ。

 『遅いおっかけ』によると、テレサ・テンは言語の天才で、北京語、上海語、 福建語、広東語に加え、日本語、英語、仏語を自在に操ることが出来た。 彼 女の歌は、1974年頃から表現の自由ばかりか諸外国の音楽の流入も制限されて いた中国本土に入り始め、文化大革命の暗黒時代を経て、経済的な問題もあっ て身も心も疲弊した13億の国民に光を与える。 1978年頃から、出征する青 年に対する色町の女の愛の歌「何日来君再来(ハーリー・チュン・ツァイライ)」 という自由な歌の大ブームが起こる。 1980年代当局はテレサ・テンの歌を全 て禁止するが、音楽テープなどはアングラでかなり流布していたらしい。 老 トウ(トウ小平)が権力で経済を開放したのなら、体制の異なる側の台湾の小 トウ(トウ麗君)が歌で大陸の人々の心を解放した事実は紛れもないという。  大陸は禁止・復活を繰り返した後、彼女の影響力を考え秘密裏に接近し、彼女 も大陸が民主化の方向に向かうと信じて、天安門広場でのコンサートも計画さ れるに至る。

 鈴木鐡矢君のテレサ・テンの人と生涯に関する探究が、今日の世界情勢の中 で重要なキーポイントになっている中国という国そのものの存在と展望にまで 及ぶところが、素晴らしい。 彼が最初に買ったCDの最後に「我的家在山的 那一辺(私の家は山の向こう)」があった。 この歌は1989年5月香港のハッ ピーバレー競馬場の中国民主化要求30万人決起集会で歌われた。 彼はその ライブ録音の歌詞の中で、そこから狸鼠が飛び出し、以来自由がなくなり生活 も苦しくなったという「ヤオトン(窯洞)」という言葉を聴き分け(CDの歌詞 と翻訳では「ディディ(地底)」)、それを中国共産党の拠点だった延安の横穴式 洞窟住居「ヤオトン」に結びつける。 一週間後の6月4日、北京で「天安門 事件」が起きるのだ。

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