『夏潮』平成27年新年会2015/03/01 06:45

 東京マラソンがあった2月22日は旧暦の1月4日、俳誌『夏潮』の新年会 がアルカディア市ヶ谷(私学会館)であった。 本井英主宰は、『夏潮』は本年 11月号で100号を迎えるが、そこを出発点として、新たな飛躍を目指しテイ ク・オフ(離陸)を、と挨拶した。 まず、句会。 5句出句でも、70名の参 加だから、例によって350句という厖大な句を読んで、3句を選句する。 2 時に始まって、選句が終わったのは、3時45分だった。 私が選んだのは、つ ぎの3句。

敗戦後七十年の梅ふふむ     主水

横丁に見番銭湯沈丁花      富美子

草芳したつたこれしきの土にも  礼子

 350句から互選の3句に選ばれる確率は百分の一にも満たない8厘5毛、私 が出した5句を書いておく。

ただじつと冬芽となりて待つてをる

二十二年寝ねし勘定春立ちぬ

二ン月や今年もあとは十ヶ月

旧正をハハ万歳と言祝ぎぬ

走る人俳句詠む人春浅し

 例年、披講でまったく読み上げられず、眠くなるのだが、今年は珍しくそこ そこに採っていただくことが出来た。 <ただじつと冬芽となりて待つてをる >を英主宰と恵美子さん、<旧正をハハ万歳と言祝ぎぬ>を英主宰と和子さん と富美子さんの計5票だった。 ただ、あとの宴会で吉例の「万歳」になった ら、「おや万歳。へへ万歳。万歳、万歳、万歳。万歳楽で、御ン慶びだア。わッ、 はッ、はッ、はッ、はッ、はッ、はッ」で、「ハハ万歳」は、ないのだった。

 宴会では、男性カルテット「ダンじぃズ」の演奏があり、高い声を出しそう もない風貌の方がアルトとテノールなのだった。 ロシア民謡「ともしび」を みんなで歌った。

『夏潮』の新年会を振り返る2015/03/02 06:35

 『夏潮』の新年会も、100号を迎えるというのだから、何回になったのだろ うかと、過去の新年会を振り返る。 日にち場所と句会の参加人数・自分の句 と成績を調べてみた。

 第1回は2008(平成20)年2月26日、TKP九段下会議室の42名、<初場 所や敵役ゐてにぎやかに><寒の雨スクラムの位置定まらず>主宰選1、互選 1、計2票。 朝青龍がいたわけだ。  この年は翌2月27日に清澄庭園吟行句 会もあり26名参加、<ちゃん付けの神輿仲間や初不動><江戸の空平成の空 みやこどり><花八ッ手縁側のある家のこと>主宰選ナシ、互選4票。

 第2回は2009(平成21)年2月22日、つきじ植むら山王茶寮72名、<夜 は狐狸出る赤坂の春の昼>互選1票のみ。

 第3回は2010(平成22)年2月14日、星陵会館(日比谷高校隣)65名(宴 会はつきじ植むら山王茶寮)、<舊正でバレンタインでよく晴れて><春浅き日 比谷高校の敷居かな><官邸のガラスに春の光かな><いつたんは冬に戻りし のちの梅>主宰選1、互選3、計4票。

 第4回は2011(平成23)年2月20日、この年から会場がアルカディア市ヶ 谷になり78名、<うかうかともう二ン月も二十日かな>主宰選1、互選1、計 2票。

 第5回は2012(平成24)年2月19日で75名、<春浅き見附の石の大きさ よ><外濠の江戸の石組冴返る>主宰選1、互選1、計2票。

 第6回は2013(平成25)年2月17日で66名、<初夢のメイド喫茶に荷風 居り><老いてなほ試験の悪夢冴返る>主宰選1、互選2、計3票。

 第7回は2014(平成26)年2月16日で58名、<雪解道この先近衞師團跡 >主宰選1、互選1、計2票。

 と見てみると、第8回の今年は、過去最高の成績なのであった。 御ン慶び だア。わッ、はッ、はッ。

福沢諭吉の十二時間ドラマ〔昔、書いた福沢17〕2015/03/03 06:36

 3月1日の産経新聞朝刊に『時事新報』創刊日(明治15年3月1日)特集 として、西澤直子慶大教授、山内慶太慶應義塾横浜初等部長、長嶋由紀子リク ルートスタッフィング社長の鼎談「福沢諭吉の「女性論」」が掲載されている。  福沢の家庭、妻・錦(きん)の話も出てくるので、ぜひお読みを。  短信40年ということで、中断していたシリーズを思い出した。 手抜きの 意図もある。

     等々力短信 第310号 1984(昭和59)年1月25日

            福沢諭吉の十二時間ドラマ

 テレビ東京2日放送の、福沢諭吉の12時間ドラマ、夕方から見始めて、ほ ぼ6割がたつきあった。 福沢に、関心を持ち続けて者として、二、三、感想 を書いてみたい。

 まず、妻お錦の存在に、新鮮な感じを持った。 テレビ・ドラマに描かれた お錦は、中井貴恵という女優の明るさもあって、好感を与えた。 私にとって の福沢の妻は、「福沢諭吉、妻 阿錦、之墓」という墓碑の、名前だけの人であ った。 英語を話す外人の子供を連れてきたエピソードなどは初耳で、おそら くドラマとしてつくられたものだろうが、福沢諭吉という人物に与えた妻の影 響というものも、改めて考えてみる必要があると思った。 それにしても、あ れだけ沢山のものを書いた福沢諭吉に、妻を語ったものが自伝の結婚の事情を 述べた部分以外思い浮かばないのは、時代の制約からあれほど自由だった福沢 でも、このことでは時代の人だったということなのだろうか。

 もう一つ、明治7年の『民間雑誌』の発行、特に明治11年には、それを日 刊にして2か月ほどで廃刊した事情なども、初めて聞く話だった。 石河幹明 の『福沢諭吉伝』を見たら、ちゃんと第二巻に「雑誌の発刊」という一章があ った。 ドラマでは、大久保利通暗殺事件についての論説に対する警察の圧力 に、さっさと廃刊してしまう福沢がいかにも弱腰な印象を与えたかもしれない。  しかし、福沢の政府に対する発言は、終始大胆で率直だった。 このことにつ いては、文芸評論の中村光夫さんがテレビ講座で、「相手は、まだ革命をやって 何年にもならない、革命政権ですよ」と語っていた言葉が印象的だ。

 12時間かけても、描けなかった福沢もある。 福沢諭吉は著作によって、明 治日本を動かした人であった。 この著作による影響というものは、テレビ・ ドラマでは表現しにくいテーマなのだろうが、もう一工夫してほしかった。 ヨ ーロッパ巡遊も省略された。 文久元年からの1年間にわたるヨーロッパ旅行 こそ、大きく福沢を飛躍させ、その後の福沢の生涯を方向づけた貴重な体験だ ったのだが…。 沢山の子の父としての福沢、その人間的な親バカぶりも、ド ラマとして面白いだろうと思ったのだが、これにもふれられなかった。 この ドラマをみて、福沢諭吉の生涯は1年間ぐらいかけてじっくりやる価値がある し、それに耐える面白さも持っていると思った。 新一万円札の図柄になるの を機会に、NHKが来年の大河ドラマとしてとりあげたらどうだろう。

あなたもパトロン〔昔、書いた福沢18〕2015/03/04 06:36

   等々力短信 第317号 1984(昭和59)年4月5日

             あなたもパトロン

土光臨調の第四部会長として、臨調答申のなかで、最良の成果といえる「三 公社の分割民営化」案をまとめた加藤寛さんの話を聞く機会があった。 加藤 さんが、『なぜ、今、「学問のすすめ」なのか?』(PHP)という本を出したの で、福沢諭吉協会が土曜セミナーの講師に招いたからである。 エネルギッシ ュな一時間半の講演は圧倒的で、国鉄、電電、専売の当事者はもとより、手ご わい官僚、利権にからむ政治家の猛反対の中で、答申をまとめ上げた力量も、 なるほどと思われた。

加藤寛さんによれば、福沢諭吉が農業社会から工業社会の転換期にぶつかっ たように、われわれは今、工業社会から脱工業社会の転換期に生きている。 そ こで、次の時代を見事に予見した福沢の姿勢は、新しい時代を模索するにあた って、おおいに参考になる。 とくに、福沢の説いた、民間自立の考え方こそ、 行政改革の真髄である。 三公社も、特殊法人も、みんな効率が悪い。 変化 に適応しにくい体質になっている。 分割、民営化して、民間会社のような競 争と活力を導入しなければならないというのである。

具体的に、官業の現状を聞いてびっくりした。 まず、国鉄。 臨調が、お 忍びで、現場を見に行った。 駅の助役が点呼をとる。 組合では、「さん」を つけなければ、返事をしないことになっている。 「○○さん、いらっしゃい ますか?」返事がない。 助役が見回して、その駅員を見付け、「ああ、いらっ しゃいますね」と、出勤簿に印をつける。 点呼がこうして終ると、一人が「お い、助役、おれは明日休むからな、年休にしとけよ」。 助役「はい、明日お休 みですか。ごゆっくりどうぞ」。 これではまるで、旅館の番頭だ。

つぎは電電公社。 昔、手動電話だった時、七万人の交換手がいた。 これ が自動化されて、どうなったか。 いまでも五万人以上が働いている。 何を しているかといえば、ひたすら番号の問い合わせを待っているのだ。 電話番 号簿を見やすく改良してはいけないのだ。 専売公社でも、技術の進歩に応じた人員の削減をしないため、ひと月17 日稼動という工場があるという。

 福沢は「愚民の上に苛(から)き政府あり」と言った。 不勉強ゆえに、こ れほどバカにされても、だまり続けてきたわれわれは、たしかに愚民であった。

長嶋の解説〔昔、書いた福沢19〕2015/03/05 06:30

    等々力短信 第321号 1984(昭和59)年5月15日

               長嶋の解説

 ゴールデン・ウィークの間に、おそまきながら、『新潮』2月号、平川祐弘氏 の「進歩がまだ希望であった頃」を、読んだ。 『フランクリン自伝』と『福 翁自伝』をくらべて、似ている点をたくさんあげながら、あれこれ考えた360 枚の大論文である。 簡単に詠めるつもりでいたのが、とんでもない話で、ふ うふういって、連休最終日の6日に、ようやく読み終えた。 平川氏は結論で、 『フランクリン自伝』がアメリカ文学史で受けているような第一級の扱いを、 『福翁自伝』も日本文学史の上で受けるべきだ、と言う。

 自分の本が売れ、これを人まかせにしては損だと、出版業を始めた福沢諭吉 も、印刷屋から文筆家になったフランクリンも、ともに、平明達意の文章でな ければ読者に買ってもらえぬことを、肌身にしみて知っていた、と平川氏は指 摘している。 それを読んだ直後の同じ6日の晩、日本テレビの巨人広島戦で、 長嶋茂雄の解説を聞いたのだ。

 長嶋の解説は、評判が悪い。 髙い声で損をしている面もあるが、しゃべり すぎも目立つ。 それにしても、あの聞きづらさは、どこからくるのだろう。  「いろいろの要素はあるでしょうが、序盤のリーグ展開から見れば、大変有意 義な三連戦」、「ですから、なすべき使命感の割り切りが、なされていないんで すね」、「特に人工芝野球というのは、このパターンのですね、一番得点の入る 確率が多いということですね、また仕掛けも非常に応用が広がってきます」、「タ ブーと言われるアッパー・スイングと、タブーと言われるダウン・スイングの 中間」。 書いてみると、これは話し言葉でないことに気づく。 目につくのは、 漢語とカタカナの使いすぎだ。 もっと、やさしくて、わかりやすい言葉を、 使ったらどうだろう。

 福沢諭吉は、「大臣」をやめて「番頭」に、政党も「立憲自由党」や「改進党」 という、いかめしい漢語の名前をやめて、「め組」や「ろ組」にしたらどうかと 言った。 文章を書く時も、山出しの下女に障子越しに聞かせても、何の本か わかるようにと工夫したという。 監督当時、長嶋の難解な言葉が、山出しの 選手(といって失礼なら)最近の大学や高校出の選手に、通じないということ は、なかったのだろうか。 福沢もフランクリンも、平易な文章を書いたから こそ、社会を動かしたのであった。