漱石の『門』「父母未生以前本来の面目」 ― 2015/09/15 06:27
夏目漱石は、朝日新聞が『三四郎』についで、『それから』の再連載していた のが、ちょうど終わったところだ。 毎日、楽しみにして、引き込まれるよう に読んだ。 『それから』は、60年近く前の高校生の時に読んでいたのだが、 何にも憶えていなかった。 そうか、こんな話だったのか、わからなかったわ けだと思う。 「愛」に生きるために、友人と夫を裏切り、高等遊民生活の糧 を断った代助と三千代は、『それから』どうなるのだろうか。 朝日新聞は続い て『門』を連載する。 『門』は、友人から妻を奪ったために、山の手の奥の 崖下の借家に、ひっそりと暮らす宗助夫妻の物語だ。 明治43(1910)年3 月1日から6月12日まで『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』に104回にわ たって連載された。 その『門』こそ、「父母未生以前本来面目」の出て来る小 説なのである。
夏目漱石は、『門』執筆の16年前、明治27(1894)年数え28歳の時、釈宗 演に参禅した。 荒正人著『漱石研究年表』(集英社)には、「明治27年から 28年にかけて、神経衰弱の症状著しい。幻想や妄想に襲われる」とある。 「12 月23日(日)夜、または24日(月)朝から翌年1月7日(月)まで、菅虎雄 の紹介で、鎌倉の円覚寺に釈宗活を訪ね、塔頭帰源院の正統院に入り、釈宗活 の手引で、釈宗演の提撕(ていせい)を受ける。元良勇次郎も共に坐禅をする。 「父母未生以前本来の面目」という公案をもらう。(島崎藤村も前年9月初旬 の2週間ほど泊り、釈宗演の下で坐禅を組んだと推定される。(瀬沼茂樹))」
松岡ひでたかさんの論考に、後年、島崎藤村は明治38(1905)年の小諸義塾 時代から『破戒』の自費出版や生活費など、雨村、神津猛の援助を受け、交遊 が続いたとある。 さらに藤村が明治44年に神津猛の案内で、円覚寺に宗演 を訪ねたという、猛夫人てう宛の手紙があるそうだが、上の瀬沼推定が正しい とすると、藤村は宗演を以前から知っていたことになる。
松岡ひでたかさんは、虚子が宗演の下に参禅、入室(「禅宗で、弟子が師の室 に入って親しく教えを受けること。開室。」『広辞苑』)してからの様子を、虚子 は語っていないけれど、参考になる資料があるとして、漱石の『門』の一場面 を引用している。
「「まあ何から入つても同じであるが」と老師は宗助に向つて云つた。「父母 未生以前本来の面目は何だか、それを一つ考へて見たら善からう」/宗助には 父母未生以前といふ意味がよく分からなかつたが、何しろ自分と云ふものは必 竟何物だか、其本体を捕まへて見ろと云ふ意味だらうと判断した。それ以上口 を利くには、余り禅といふものゝ知識に乏しかつたので、黙つて又宜道に伴(つ) れられて一窓庵へ帰つて来た。」
やがて、入室に誘われて老師の前に座した。「此静かな判然しない燈火の力で、 宗助は自分を去る四五尺の正面に、宜道の所謂老師なるものを認めた。彼の顔 は例によつて鋳物の様に動かなかった。色は銅であつた。彼は全身に渋に似た 茶に似た色の法衣を纏つてゐた。足も手も見えなかつた。たゞ頸から上が見え た。其頸から上が、厳粛と緊張の極度に安んじて、何時迄経つても変る恐を有 せざる如くに人を魅した。」
そうして、宗助は、公案に対する自身の解答を提示した。「此面前に気力なく 坐った宗助の、口にした言葉は、たゞ一句で尽きた。/「もつと、ぎろりとし た所を持つて来なければ駄目だ」と忽ち云はれた。「其位な事は少し学問をした ものなら誰でも云へる」宗助は喪家の犬の如く室中を退いた。後に鈴を振る音 が激しく響いた。」
「喪家の犬」は、【喪家の狗】そうかのいぬ「[孔子家語(困誓)]喪中の家の 犬、または、やどなし犬。転じて、やつれて元気のない人のたとえ。」(『広辞苑』)
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