杉山伸也・川崎勝編『馬場辰猪 日記と遺稿』 ― 2016/07/09 06:26
発端は『福澤手帖』169号(2016年6月・福澤諭吉協会)の川崎勝さん(同 協会理事)の一文だった。 「さまよい歩いてきた馬場辰猪―新発見「馬場辰 猪日記」で見えてきたこと―」である。 馬場辰猪歿後125年にあたる2013 年秋に、1882(明治15)年、1884(17)年、1885(18)年の「馬場辰猪日記」 と、“K’waigo or Repentance:A Story of Feudal Japan”(「悔悟」)が、三菱史 料館の岩崎久弥の遺品の中から発見された。 1988-89年刊行の『馬場辰猪 全集』全4巻(岩波書店)を川崎勝さんと一緒に編纂した杉山伸也さん(慶應 義塾大学名誉教授)は、「馬場辰猪は、いまなお生きて、あなたのすぐ身辺をさ まよい歩いている」という安部公房の言葉を思い出し、川崎さんもまったく同 じ思いだった、という。
そして杉山伸也・川崎勝編『馬場辰猪 日記と遺稿』(慶應義塾大学出版会・ 2015年)が刊行された。 新発見の「日記」と「悔悟」、日記の記述から馬場 辰猪筆と判明した『朝野新聞』の無署名論説「史論」を中心として、馬場の最 後の投書「日本の内閣(The Japanese Cabinet)」その他の史料に、それぞれ に詳しい解題を付し、全面的に改稿した「年譜」、杉山伸也さんの書き下ろし「馬 場辰猪伝」で構成されている。
ここで、ざっくり『広辞苑』で「ばば たつい」【馬場辰猪】をみておく。 「政 治家・思想家。高知藩士の子。孤蝶の兄。慶応義塾に学び、イギリスに留学、 法学を修める。自由党員として民権思想の普及に努力。また明治義塾を開く。 投獄されたが、釈放ののち渡米して客死。主著「天賦人権論」。(1850~1888)」 (嘉永3年~明治21年、享年38歳)
杉山伸也さんの「馬場辰猪伝」から読んでいきたい。 辰猪の短い生涯38 年を、4つの時代に分けている。 (1)1870(明治3)年7月に英国留学する までの国内での修業時代(~20歳)、(2)70年7月から一時帰国の4ヵ月をは さんで78(明治11)年5月までの実質約7年にわたる英国留学の時代(20歳 ~28歳)、(3)帰国から86(明治19)年6月の渡米までの約8年にわたる国 内での自由民権運動の時代(28歳~36歳)、(4)渡米から88(明治21)年11 月にフィラデルフィアで客死するまでの2年4カ月におよぶ米国時代(36歳~ 38歳)。
(1)馬場辰猪は、66年4月(慶應2年3月)、父來八の異母弟で土佐藩海 軍機関士の叔父氏連の影響で、海軍機関学の修業のために藩留学生として江戸 に遊学し、7月(同5月)築地鉄砲洲の福澤塾(のちの慶應義塾)に入塾した。 英語と地理や物理を学び、合衆国の歴史を読めるまでになった。 江戸の状況 の切迫で土佐に帰ったが、69(明治2)年1月芝新銭座に移転していた福澤塾 に再入学し、約1年間歴史、経済学、倫理学を学び、西洋の科学や文化につい ての基礎的な教養を習得した。
(2)馬場は、藩命で海軍研究のため英国へ留学する機会を得た。 そして 思想形成の決定的時期を英国ですごし、ヴィクトリア中期の自由主義の思想的 洗礼をダイレクトに受けた。 72(明治5)年8月岩倉使節団の英国訪問を機 に、政府留学生として専攻を法律学に変更する。 この時代の英国で、思想の 中核となる人権の尊重や自由・平等の精神が自然法や自然権論からみていかに 基本的なものであり、かつ「公議輿論」がいかに重要であるかを原体験として 知った。 英国社会科学協会で、体制内改革、言論の自由が国民の福利を増進 することを学ぶ。 こうした政治的、社会的、知的環境のなかで、馬場自身の 法律学をはじめとする内在的な知的探究心と武士としての責任感、この内外の ふたつの要因が密接に結びついて、馬場の思想は形成されていった。
こうした西洋思想の影響とともに、福澤諭吉の影響が馬場の生涯にわたって 強烈な刻印をおした。 福澤は1874(明治7)年10月、馬場に送った書簡に、 「結局吾輩の目的ハ、我邦之ナシヨナリチを保護するの赤心のミ。……幾重ニ も祈る所ハ、身体を健康ニし、精神を豁如ならしめ、飽まて御勉強之上御帰国、 我ネーションのデスチニーを御担当被成度、万々奉祈候鳴也」と書いた。
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