「暗い情念」から「明るい絵」へ2016/07/18 06:21

 向井敏さんは「「暗い宿命」に背を押されて」という文章で、藤沢周平の初期 の作品の仕組みの、一様な暗さについても述べている。 当時の藤沢が自分の なかに人知れず住まわせていた、暗みに傾く人生観、彼自身の言葉を借りてい えば、「暗い情念」「鬱屈した気分」に忠実にありたいと意思していたからだと いう。 昭和48年暮、第二短篇集『又蔵の火』(初刊昭和49年、文藝春秋) の「あとがき」に、「話の主人公たちは、いずれも暗い宿命のようなものに背を 押されて生き、あるいは死ぬ。これは私の中に、書くことでしか表現できない 暗い情念があって、作品は形こそ違え、いずれもその暗い情念が生み落したも のだからであろう。」と書いた。 その10年後のエッセイ「転機の作物」(初 出「波」昭和58年6月号)にも、「そのころは暗い色合いの小説ばかり書いて いた。」「男女の愛は別離で終わるし、武士は死んで物語が終わるというふうだ った。ハッピーエンドが書けなかった。」 書けない理由は、「その以前から私 は、ある、ひとには言えない鬱屈した気持をかかえて暮らしていた。」 「会社 に勤めて給料で暮らしている平均的な社会人で、また一家の主だった。妻子が いて、老母がいた。その平凡な、平凡さのゆえに私の平衡を辛うじて支えてい る世間感覚を失いたくなかった。何かに狂うことは出来なかった。」 「しかし、 狂っても、妻子にも世間にも迷惑かけずに済むものがひとつだけあって、それ が私の場合小説だったということになる。」 「物語という革ぶくろの中に、私 は鬱屈した気分をせっせと流しこんだ。そうすることで少しずつ救済されて行 ったのだから、私の初期の小説は、時代小説という物語の形を借りた私小説と いったものだったろう。」

 だが、前出の昭和48年暮の『又蔵の火』「あとがき」に、「この暗い色調を、 私自身好ましいものとは思わないし、固執するつもりは毛頭ない。」「ただ、作 品の中の主人公たちのように、背を押されてそういう色調のものを書いてきた わけだが、その暗い気分を書き切ったら、別の明るい絵も書けるのではないか という気がしている。」と書いている。

 向井敏さんは「ユーモアの彩り」という文章で、藤沢周平が「別の明るい絵」 を書けるようになるのは、ようやく昭和49年に入ってからだとする。 『証 拠人』(初出「小説新潮」昭和49年6月号)、『臍曲がり新左』(初出「オール 讀物」昭和50年4月号)、『一顆の瓜』(初出「別冊小説新潮」昭和50年夏季 号)、『遠方より来る』(初出「小説現代」昭和51年1月号)と、ユーモアの彩 りをほどこした短篇が書き継がれる。 そして、満を持して放たれたのが、『用 心棒日月抄』の連作だというのである。

 そうした藤沢周平の「暗い情念」から「明るい絵」への変化の背景に、何が あったのかを描いたのが、テレビドラマ『ふつうが一番』だったのである。