神職神楽舞禁止令という法律2018/02/11 08:30

 1月25日の「等々力短信」第1103号「俵元昭さんと「石州神楽」研究賞創 設」についての、友人の「明治の神道国教化以来、神職が神楽舞を禁じられた」 というのは、どういうことなのか、という質問だが、たまたま俵元昭さんと電 話でお話したので、お聞きした。 明治初年に、神職神楽舞禁止令という法律 が出たと、聞いている。 しかし、法律は見たことがない。 芸人がすること だというのがあったようで、残ったのが「巫女舞」(氏子の娘が、鈴などを振っ て踊るだった。 (短信に書いた)大元神楽の発見者、牛尾三千夫宮司の著書 『神楽と神がかり』(名著出版)には、記述があったと思う。 国立劇場の「大 元神楽」公演(2015年6月か?)の、慶應の後輩が書いた解説にもあったと記 憶している。 国会図書館で法令を探すか、國學院大學や神社本庁で調べれば、 わかるだろう、とのことだった。

 インターネットを「神職神楽舞禁止令」で検索したら、「石見神楽の歴史」 http://snd4410.com/iwamikagura%20no%20rekishi.htmには、「神俗交代」 「旧藩時代の石見神楽は神職が舞う神楽であったが、浜田の神職、田中清見氏 (たなかすがみ)によって舞が広められた。幕末の頃になると次第に民間から 舞う者が出て来て神俗交代に拍車が掛かり、明治維新の頃からは明治政府の敬 神思想により、神職に芸人的な石見神楽を演ずる事を禁止した神職演舞禁止令 の影響によって民間の社中へと神俗交代が行われた」とあった。 徳島文理大 学の吉川(きっかわ)周平さんが1990年に日本口承文芸学界で発表した「神 楽と神がかり―大元神楽をめぐって―」には、関係の記載もあり、内容も興味 深かった。

他に、「明治3、4年に神祇院から「神職演舞禁止令」「神懸り禁止令」が 出された」と記述しているものがあった。 福岡県立図書館提供の「レファレ ンス事例詳細」(2013年5月16日更新)に、「「神懸り禁止令」「神職演舞 禁止令」の条文が掲載された資料はあるか」という質問があり、「条文が掲載 された資料は見当たらなかった。関連する可能性のあるものとして、以下のも のが見つかった。・回答資料4『法規分類大全 第26巻』内閣記録局 編(原書 房1988)「是迄心願ト称シ猥ニ社頭ニ於テ神楽奉納之儀自今禁止之事」(達4 年2月14日)(p.17) ・回答資料3『明治以後宗教関係法令編纂」文部省文 化局宗務課 監修(第一法規出版1968)「○宣教使心得書(明治3年4月23 日 神祇官達)」(p.27)「○教導職へ、説教方につき訓諭(明治5年11月 教 部省番外)」(p.54) 「○神官総て教導職に補する件(明治5年8月8日 太 政官布告第220号)」(p.421)」 「○神官奉務規則」(明治6年7月7日 教部省達第24号)(p.421)」と回答していた。

名和未知男さんの第四句集『草の花』2018/02/12 06:40

 「草の花」主宰の名和未知男さんから第四句集『草の花』を頂いた。  藤田あけ烏師が平成5(1993)年に創刊した「草の花」は来月25周年、平 成16(2004)年に師の逝去で主宰を引き継いだ名和未知男さんの在任期間の 方が長くなったという。 平成17(2005)年に第一句集『くだかけ』を頂い て、以下を書いていた。

  名和未知男さんの第一句集『くだかけ』<小人閑居日記 2005.5.21.>

「歩く俳人」の海外詠<小人閑居日記 2005.5.22.>

孫の句、母の句、そして…<小人閑居日記 2005.5.23.>

 さっそく、『草の花』を拝読、好きな句を15句選んでみた。

  日本海の風待ち港蜆汁

  野火止に水分かれゆき水温む

  惜春やダークダックス同世代

  啓蟄や砂蒸し風呂に身じろがず

  白茅(ちがや)咲き母に会ひたくなりにけり

  風のやうに生きたし柳絮飛ぶ日なり

  朝凪や鳥海山は海に浮き

  喝と一声禅堂の五月闇

  阿川さんの墓標と仰ぐ雲の峰

  独り言です返信不要秋の宵

  月明に鳥海山は孤なりける

  秋うらら女は道の駅が好き

  日本海の魚みな旨し時雨空

  山眠る炭焼きのこと絶えし山

  冬の田や影を持ちたる藁ぼつち

「奴雁(どがん)の精神」2018/02/13 07:10

 七つ下の弟が古希になったというので、信じられない感じがする。 自分の 齢は勘定にない。 工学部の機械工学科を出て、鉄鋼機械の設計や、セールス・ エンジニアとしての海外勤務などもしてきたから、役に立つのだろう、古希に なっても現役で働いている。 会社で「奴雁」が話題になったのだそうで、ネ ット検索したら、私のブログの「奴雁(どがん)」福沢と前川日銀総裁<小人閑 居日記 2012. 4. 22.>が出てきたという。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2012/04/22/

 なぜ話題になったかは、私には想像がついた。 長く取っていない日本経済 新聞が、たまたま宣伝用にポストに入れた1月31日朝刊の「交遊抄」が「奴 雁の精神」なのを、見たからだった。 木内登英(きうち・たかひで)野村総 合研究所エグゼクティブ・エコノミストが書いていた。 「奴雁(どがん)と いう言葉がある。雁(かり)の群が餌をついばむ時に、仲間が外敵に襲われぬ よう首を高くして周囲を警戒する一羽の雁のことだ。福沢諭吉が「学者は国の 奴雁なり」と説き、前川春雄・元日銀総裁も日銀職員のあるべき姿として好ん だ言葉だという。」 木内さんは、これを2014年に日銀を退行した日立製作所 の青木周平さんに教わったという。 好奇心旺盛で労をいとわない青木さんは、 「本当に奴雁はいるのか」と宮城県の越冬地を訪れ、奴雁の写真まで撮ってき たそうだ。 出会いは1990年、社会人4年目の木内さんがエコノミストとし てドイツに赴任したとき、青木さんは日銀の駐在員として活躍していて、ドイ ツやソ連の情勢を丁寧に教えてくれた。 20年あまりを経て、木内さんが日銀 審議委員になり、再び話を聞く機会ができた。 決済制度に精通し、金融イン フラの構築に尽力している姿に、こうした人たちが日本経済を支えているのだ と知ったという。 木内さんは、日銀の金融政策に反対票を投ずることもあり、 精神的にも苦しかったが、青木さんに教わった奴雁の言葉は支えだった。 日 銀は卒業したが、奴雁の精神は忘れず社会に貢献していきたい、と書いていた。

 弟は、歴史のある大きな会社から、技術的にも、経営的にも、経験が浅い会 社に移った。 誰かが問題点を先取りして、タイムリーにアドバイスすること が求められている。 まさに奴雁のような立場が必要なので、そう努めている のだという。

残念『広辞苑』第七版の【福沢諭吉】2018/02/14 07:22

 「『等々力短信』1000号を祝う会」の記念品として「電子辞書」を頂戴した ことは、「等々力短信」第1005号(2009年11月25日)「おかげさまの電子辞 書」に書いた。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2009/11/25/4720064

 ずっと便利に使ってきたのだけれど、『広辞苑』第七版が入った最新機種が出 たというので、さっそく入手した。 それで複数の辞書を対象に、「奴雁」を引 いてみた。 「奴雁」は、『広辞苑』にはない。 国語辞典では『明鏡』『新明 解』も収録されているが、それにもない。 唯一あるのは、『デジタル大辞泉』 だ。 どがん【奴雁】⇒がんど【雁奴】「夜、砂州で休んでいる雁の群れの周囲 で人や獣の接近を見張っている雁。転じて、見張り役。奴雁。/◆「奴雁」と したのは福沢諭吉という説があるが、真偽不詳。」 福沢諭吉にまで言及してい た。

 私が『広辞苑』第七版で、まず見たかったのは【福沢諭吉】であった。 第 六版について、「等々力短信」第988号(2008年6月25日)「『広辞苑』の【福 沢諭吉】」を書いていたからだった。

     等々力短信 第988号 2008(平成20)年6月25日

             『広辞苑』の【福沢諭吉】

 15日、紫陽花真っ盛りの鎌倉極楽寺の成就院で開かれた、小尾恵一郎ゼミ OB会「紫陽花ゼミ」で、光栄にも「福沢諭吉」について話をさせてもらった。  柱の一つに、『広辞苑』【福沢諭吉】に苦情を言う、を選んだ。 『広辞苑』第 六版には、こうある。

 『ふくざわ‐ゆきち【福沢諭吉】思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方 洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行し て三回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動。一八六八年(慶応四) 塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。八二年(明治一五)「時事新報」を創刊。 独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世 界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。(一八三 四/一九〇一)』 手元の第四版もほぼ同じで、「豊前中津藩の大坂蔵屋敷で生 まれ」、「江戸に蘭学塾を開き、また英学を研修」とあり、「(幕府)に用いられ」 の句がないのが、違うだけだ。

 苦情の第一は、福沢の生年の西暦、「一八三四」。 福沢が生れたのは天保5 年12月12日だが、西暦では1835年1月10日に当る。 天保5年の大部分 は1834年にはなるけれど…。 そして『福翁自伝』などの福沢の年譜は、数 え年で書かれているため、天保5年暮の生れは、満年齢より二歳多くなる嫌い がある。 塾創立は実に満23歳。

 第二は、「独立自尊を鼓吹。のち…」。 福沢は晩年の大患後、近代化に伴う 国民の道徳水準を心配して、高弟達に「修身要領」29条を編纂させた(明治 33(1900)年2月24日発表)。 その中心にすえられたのが「独立自尊」だっ た。 福沢は、この四字熟語を明治23年8月の『時事新報』社説や明治30年 6月の演説で使ってはいるが、その根本思想を表すものとして一般化したのは、 あくまでも明治33年以降なのだ。

 第三は、「脱亜論」と「脱亜入欧」。 著書の中に「脱亜論」があるが、「脱亜 論」は明治18(1885)年3月16日の『時事新報』社説の題目で、本ではない。  「『脱亜入欧』を唱えた」とあるが、丸山真男さんによれば(『三田評論』昭和 59年11月号の座談会「近代日本と福沢諭吉」)、福沢は「脱亜」という言葉は、 この社説の題目に一度使っただけだし、「入欧」という言葉は使っていない。 戦 後、この「脱亜論」と「脱亜入欧」のレッテルを貼って、福沢はアジアを蔑視 し、大陸侵略的だったと批判する人々が現れた。 一人歩きしたそのレッテル に『広辞苑』は引きずられている。  (馬場紘二)

 この「等々力短信」第988号は岩波書店にも送った。 そこで『広辞苑』第 七版だが、電子辞書購入前に図書館で見てきた。 ふくざわ‐ゆきち【福沢諭 吉】の記述は、第六版とまったく変わっていなかった。 まことに残念である。

『広辞苑』を遊ぶ「たほいや」2018/02/15 07:18

 『広辞苑』で思い出したのは、『広辞苑』で遊ぶ「たほいや」というゲームで ある。 20年ほど前に、フジテレビの深夜番組でやっていたのだそうだが、私 はパソコン通信と呼んでいた頃のネットの会議室(フォーラム)で、小林恭二 さんに教えてもらったと思う。 当時の番組に出演していたというタレント・ 俳優の松尾貴史さんが、『図書』2017年6月号に「『広辞苑』を遊ぶ「たほいや」」 を書いていたので、細かいことを思い出した。 「たほいや」というのは、静 岡県で山畑を荒らす猪を追い立てるための番小屋だそうだ。

 5~6人で遊ぶのだが、一人が親(出題者)になって、『広辞苑』から「たほ いや」や「ちんこきり」のような、耳で聞いただけではわかりにくい言葉を見 つけて読み上げる。 他の参加者は、その言葉の意味を知っていても知らなく ても、辞書の説明のような文面を「捏造」するのだ。 実際に放映されたお題 「ちんこきり」では、A「人前でとつとつと話し出すこと」B「鉄板・鋼板に穴 を開ける道具」C「手間賃をとってタバコの葉を刻むこと。また、その業者」D 「ハンガリーの三拍子の踊り。チンコキル」E「近畿・四国地方などで、ハサ ミムシのこと。灌木や岩の裏などに生息する」といった風に、適当な思いつき の説明を紙に書き込み、親に渡す。 親は『広辞苑』の解説を書いた紙を混ぜ て、番号を振って、順番に読み上げる。 参加者は、どれが正解かを予想・推 理し、チップを賭ける。 正解者には点数が加算され、間違った人はその答を 創作した人にチップを渡す。 それを出題者を代えながら繰り返す。 出題者 が一回りするか、制限時間が来れば、集計して、その日の優勝者が決まる。

 私も、三題出してみよう。 一「たかしこぞう」。 A「鷹匠の弟子。」B「台 風や低気圧によって、海水面が異常に高まり、海水が陸上に侵入すること。高 潮。」C「管状・樹枝状の褐鉄鉱。鉄分が地中の植物体のまわりに付着してでき たもの。」D「竹筒で作った、矢の容器。」E「和泉国の歌枕、高師の浜付近の子 供。」

 二「まひろげすがた」。 A「昼の真中。ひるひなか。」B「身分の低い者らし い恰好。」C「展開により切り広げられた図。展開図。」D「しどけない姿。」E 「大名屋敷の小者・人足などの詰所。」

 三「ちちんこ」。 A「鰍(かじか)の異称。」B「乳汁。」C「乳飲み子。」D 「のどかで日の永いさま。」E「生まれた児に、まず他人の乳を飲ませる風習。 乳わたし。」

 答は明日ね。