福沢諭吉と岩倉具視2018/11/28 07:11

 富田正文先生の『考証 福沢諭吉』(下)の「維新政治家との交遊」の「大久 保利通」を読んだついでに「岩倉具視」も見る。 そして『福澤諭吉事典』の 「岩倉具視」も参照する、これも小川原正道さん。 岩倉具視というと、つい 笑福亭鶴瓶の顔が浮かんでしまうのだ(笑)けれど。 

 福沢が初めて岩倉具視に会ったのは明治3(1870)年、慶應義塾が芝新銭座 から移転するに当たり、三田の島原藩中屋敷に目をつけた福沢は、その貸渡し を実現するため方々に助力を求め、岩倉邸にも初めて赴いて面会し、仲介を依 頼したという。 面会後の知人に宛てた手紙では、岩倉はウエルカムと歓迎し てくれたと述べている。 実はこの前年、福沢が熱病を患って回復した時、主 治医の一人が岩倉公も蔭ながら病状を案じていたと知らせ、名誉であるかのよ うに語ったのを、福沢は見ず知らずの政府の大官がひとの病状を案じたからと いってそれが何の名誉だと、心中ひそかに医者の軟骨無腸を嘲ったことがあっ たという。

 面会して以降は親しくなったようで、岩倉は時勢について福沢から意見を聞 き取ることがたびたびあったという。 明治12(1879)年に、福沢は岩倉に 宛てて「華族を武辺に導くの説」と題する建白書を提出した。 華族が歴史的 名望を生かして軍事に投資し、またみずから軍人になるべきだ、と提言するも のであった。 当時華族会館長でもあった岩倉は、これを各華族に示して意見 を寄せるよう求めたが、それは華族が軍務に就かないことを憂えていた岩倉が、 華族に反省をうながす措置だといわれている。 華族の間には賛否両論があっ たが、その後華族の子弟の間に陸海軍の士官養成の学校に入学するものが多く なったのは、この説の影響のあったことを証するものだろうと、富田先生は書 いている。

 さらに福沢は、鉄道の敷設を熱心に唱道し、従来とかく文化におくれ勝ちな 東北方面に大動脈を開通することは国家的な急務であり、これに必要な資金は 華族の出資に俟(ま)つのが適当であるとして、熱心に岩倉に説いた。 岩倉 もこれを受けて日本鉄道会社の設立に乗り出した。 この東京・青森間の鉄道 に日本鉄道という大きな名前をつけたのは、当時はまだ新橋・横浜間、京都・ 大阪間、大阪・神戸間ぐらいの短い路線しかなかったからという。 上野駅前 にある鉄道関係の教育をする学校法人明昭学園・岩倉高等学校の名は、日本鉄 道会社創立の中心人物であった岩倉具視を記念するものだそうだ。 明治16 (1883)年、この鉄道が上野から埼玉県の熊谷まで開通した時、福沢は産婆役 として招待され、熊谷駅まで試乗し、同地で演説したという。

 明治14(1881)年の政変で福沢は、伊藤博文、井上馨とは絶交状態になっ たが、岩倉は福沢が無実なのに政変の元凶に仕立て上げられている事実を承知 していたものとみられ、たびたび福沢を招き、ひそかに茶室のようなところで 面会し、ひどく心配な様子で、今回の政変は実に容易ならぬ事件でむずかしい などと、心情を吐露したという。 翌明治15(1882)年にも福沢は岩倉と会 って長時間話し込み、官民調和論や政党政治家についての持論を開陳し、同年 に朝鮮で壬午事変が発生すると、岩倉に朝鮮開化派の支援や官民調和、功臣調 和、民間有力者の採用などを訴える意見書を提出する。 またこの年、福沢が 『帝室論』を発表した際、天皇に政治権力を持たせないという主張に政府内で は反発も出たが、岩倉は福沢に賛意を示したため、反対論は沈静化したという。  しかし翌明治16(1883)年7月20日、岩倉は死去した。