国民国家形成の基礎「一身独立」、自発的結社の創出 ― 2021/03/01 07:05
松沢弘陽著『福澤諭吉の思想的格闘』、第II部「国民国家形成の構想」に移りたい。 松沢さんは、近代日本の知識人の中で、福澤諭吉ほど、自己の知識人としての役割の独自性を意識し、社会におけるとくに政府に対する位置や態度のとり方の戦略を深く考えぬいたものは、稀だろうとする。 そして、福澤の日本における国民国家形成の構想は、彼の自己の役割の意識や立場・態度のとり方と密接に結びついていたと言う。
文久の幕府遣欧使節団に傭通詞として参加した11か月の経験を通して、西欧の近代国家と社会の自由で開かれた面をまのあたりにした福澤は、旅の途中から日本政治の「御変革」を訴えるにいたった。 権力の集中と統一、門閥制度の廃止による統一国家の建設と富国強兵が、「変革」の目標であり、封建的忠誠をこえる、統一国家への忠誠としての「大忠」―「報国」が説かれるようになった。 福澤の統一国家の具体的構想は、大名連合から「大君のモナルキー」―徳川将軍の絶対主義―へと展開していったが、彼はやがてその見通しに絶望せざるを得なかった。 幕府には、もはや国家統一の主体となる力がなく、これを倒した尊攘倒幕勢力は、盲目的な排外主義で、ゆきつくところ内戦と外国勢力の介入による亡国は免れない―というのが、福澤のゆきついた展望だった。
福澤は、新政権が成立し、徳川家が駿河府中に封じられたのを機に、幕臣を辞し「双刀を投棄し読書渡世の一小民」として生きる道を選び取った。 さらに中津藩からの禄も辞し、新政権からの度重なる出仕の召しも拒み通した。 自立の活計を目ざしただけでなく、廃刀から節酒にいたるまで生活のスタイルを一新し「一身の私を慎」むにいたった。 何よりも、自己の内面から「奴隷心を一掃」する「心の変化」をとげた。 ここに福澤の「一身独立して一国独立す」という国民国家形成の基礎をなす「一身独立」の原型が形成されたのである。
「読書渡世」という知識人としての独立の道を選んだ福澤は、「吾党の士相与に謀て、私に彼の共立学校の制に倣ひ」(「慶應義塾之記」)慶應義塾を創設した。 彼はこの私塾について、「僕は学校の先生にあらず、生徒は僕の門人にあらず、之を総称して一社中と名け……」といい、あるいは「会社」「同社」と称した。 「会社」という言葉はおそらく、西欧社会とくにヴィクトリア期英国社会のあらゆる局面をつらぬいている、自発的結社による公共の事業の経営という現実に触発された福澤が、その原理を表わすために鋳造したものだった。 慶應義塾の学則は後にいたるまで「社中之約束」として示された。 慶應義塾は、福澤にとって、志を共にする独立な個人の「約束」による集団形成の原型だった。
文明史を学び国民国家形成を政治的戦略へ具体化 ― 2021/03/02 07:02
日本の前途についてほとんど絶望していた福澤は、新政権の廃藩置県の断行で、その見通しを一変し、『学問のすゝめ』の連作を中心とする民衆啓蒙の筆をとり始めた。 さらに、学制・四民平等・鉄道通信・勧業・軍制と引き続く、嵐のような文明開化政策は、福澤の知識人としての役割意識と立場の設定を一層独自のものにしていった。 政府の法令の「国民」は、政府の支配の客体であったが、福澤における「国民」は、「貴賤上下の別なき国中の人々」であり「政府の玩具たらずして政府の刺衝(刺激)と為るとともに」「其国を自分の身の上に引き受ける」主体だった。 福澤は、現状を「日本には唯政府ありて未だ国民あらずと云ふも可なり」と判断し、「始めて真の日本国民を生じること」を自己の課題として定めた。 その課題「真の日本国民」の創造のためには、政府に加わらずあくまで「私立」の立場に立つことが不可欠だった。
明治4(1871)年から明治12(1879)年頃までは、福澤の政治思想の最も創造的な展開の時期であり、福澤唯一の原理論の書物『文明論之概略』の執筆とその前後の時期だった。 それは福澤が生涯を通じて西欧の政治・社会思想の古典的な書物の数々を、おそらく系統的に選んで集中的に学んだ時期、いわば書物を通じて西欧社会との再会をなした時期でもあった。 他方それは、廃藩置県の大変革から、明治14年の政変の前夜にいたる、明治国家草創の政治的激動の時期だった。
福澤がこの時期に接した一群の西欧の書物には、一つは歴史とくに世界史の発展の構想、他の一つは具体的な歴史的条件のもとで可能な目標を設定し、実現する戦略を求める「実践的技術」(J・S・ミル)があり、両者は、国民国家の形成と変容という問題と深く結びついていた。 そのような思想を学ぶことによって、福澤の国民国家の形成の構想は、理念から政治的戦略の目標へと具体化した。
福澤は日本における国民国家の形成という課題を、世界史的な文明史の長期かつ広い視野のもとにとらえるにいたった。 『文明論之概略』では、政治家と知識人との職能と分業が論点とされ、両者はこれ以後福澤の基本的なたとえになる、もと医学書生らしい「外科の術」と「養生の法」というアナロジーで説明された。 「事物の順序を司どりて現在の処置を施し」「其事の鋒先きに当て即時に可否を決する」のと、「前後に注意して未来を謀り」「平生よく世上の形勢を察して将来の用意を為し、或は其事を来たし或は之を未然に防ぐ」「高尚の地位を占めて前代を顧み、活眼を開て後世を先見する」のとの分化である。 歴史についてのスケールの大きい理論が、そのような知識人の知的営みを可能にし、またこのような歴史における反省と先見が現在についての成熟した判断を可能にするとされた。
そして、福澤は、現実政治の衝に当たる政治家に対して、歴史の広大な展望を示して、それを指導しようとする。 知識人は、「衆論」の指導を通して、いわば迂回的に、政府を制御しうるとする。
福澤は、政府の外に「私立」し、凡百の洋学派知識人とも袂を分かって、独り突出した存在として立つことを選んだ。 政治が激動したこの時期に、度重なる決断を通して、マージナルな知識人としての自己を確立し、「私立」と「一身独立」の立場から国民国家の構想を示し、その原型を創り出すことを課題とした。 その意味で福澤を、いわば知性の「使命予言者」(M・ウェーバー)としてとらえ、「維新最大の指導者」とする藤田省三『維新の精神』(みすず書房)の理解は、まことに的を射ているといえよう。
初期、福澤に影響した「道徳科学」と社会契約 ― 2021/03/03 07:03
第II部「国民国家形成の構想」の第二節「「道徳科学」と社会契約」では、福澤が初期に影響を受けた西欧の書物について述べられている。 初期、福澤が国民形成のための「コンモン、エヂュケーション」にのり出した時には、欧米における「コンモン、エヂュケーション」の代表的著作だった。 英米両国の多種多様な初等教育教科書のほかに、英国では産業革命による社会の変動と伝統的秩序の動揺に対応するため、新しく台頭するミドル・クラス層や労働者階級への教育を意図したもの。 チェンバース社刊行の一連の著作、とくに政治・社会論では、バートンの『政治経済学』や『道徳教科書』だった。 アメリカの著作で、福澤に大きな影響を与えたのは、「アカデミック・モラリスト」と呼ばれるカレッジの教授たちの「道徳科学(サイエンス・オブ・モラルズ)」の教科書類である。 ブラウン大学の学長をつとめたフランシス・ウェイランドの『政治経済学要綱』や『道徳科学要綱(エレメンツ・オブ・モラル・サイエンス)』(以下『エレメンツ』と略す)には、政治思想の形成に深い影響を受けた。
福澤はウェイランドの『エレメンツ』の社会契約論を、きわめて積極的に受け入れ、それを再構成することによって彼の国民国家の最初の構想を築いたのである。 福澤は、「一国」―政治社会・国民国家―をも「商社」と同じように「国民」の個々人が合意によって組織する「会社」「社」―自発的結社―としてとらえる。 「一国」を、個人主義を前提にした自発的結社とそこで成立つ社会契約とし、政治社会を形成する本人たる「国民」が代理人として政府を選任し、契約して立法と秩序維持の機能を委任する。 「国民」は政治社会の主人=主権者であり、客=被治者である、「一人の身にして二箇条の勤」を有することになる。 こうして『学問のすゝめ』六・七編の「国民」「一国」「政府」の構成は、ルソーの『社会契約論』(国家の起源を自由で平等な個人相互の自発的な契約に求め、それによって政治権力の正当性を説明しようとする)に先祖返りしたようだが、福澤によって再活性化された社会契約論は穏健で、「国民」は主人として政府を支える経費を負担する義務を持ち、客としては遵法と政治的服従の義務を負った。
日本を国民国家にする福澤の方法 ― 2021/03/04 07:13
第II部「国民国家形成の構想」の第三節「文明史の中の国民国家形成」では、一昨日見た福澤が集中的に学んだ時期の、西欧の書物について述べられている。 福澤はウェイランドに代表される道徳科学とは全く異なる思想圏に属する、19世紀の30年代以降の古典的な書物に、その思想を根本から揺さぶられる衝撃を受けた。 ギゾー、トクビィル、ミル、バックル、スペンサーらを軸にした新しい思想の世界である。
J・S・ミルの『自由論』でも『功利主義論』でも、社会契約論は否定された。 ギゾーの『ヨーロッパ文明史』も、トクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』も、キリスト教的な神の定める道徳法の義務の体系でなく、国民国家の形成と統合・代議政治・自由等についての、文明史の相の下での考察だった。 こうして福澤における国民国家は、社会契約論的な理念像から、文明の世界史の一局面となり、政治的義務の体系から、「方」と「術」を駆使して実現すべき、実践的な「目的」へと飛躍した。
『文明論之概略』と、『学問のすゝめ』九編以降で、福澤はそれを展開する。 ギゾーの『ヨーロッパ文明史』からは、絶対王政の下での「一つの国民と一つの政府」という構造の形成に始まり、「王室の政治」の「不流停滞」に対する「人民の智力」の進歩の革命にいたる、西欧における国民国家形成の歴史を知った。 「国民」が、西欧では「ネーション」と呼ばれる歴史的形成体であることに開眼し、『代議政治論』によって西欧の「ナショナリティー」という観念を知って、これをもとに「国体」という日本の伝統的な言葉に全く新しい意味づけをした。 さらに国民国家=「一国」「国」というものは、政府と、政府と拮抗しつつ「一国」を主体的に担う国民との統一体であるという構造を、福澤は理解した。
西欧における国民国家形成の歴史は、日本におけるそれについての歴史的展望をも可能にした。 「王政維新」は、英仏両国の革命と同じ性質の「大騒乱」だとされた。 天明・文化期に始まる長い「門閥専制」の「不流停滞」と「人民の智力」の進歩とが原因となって、攘夷をスローガンとして利用した「革命」を帰結したとしたのである。
このような同時代理解から、さらに国民国家形成における現在の問題と将来に向かっての課題が照らし出される。 「国論」「衆説」を実質的に形成するのは「中人以上智者の論説」である。 彼らを通してその下の民衆に、国民国家を担うにたる「報国心」を育て、「同一の目的」に向かうよう組織化しようと企てたのである。 その具体化として、「人民の交際」を活発化し、「仲間」―自発的結社―の組織化とそれを支える「演説」「衆議」を発達させることを説いた。 福澤が重視したのは、文明の制度の「外形」ではなく、「精神」、制度それ自体ではなく、「働らき」であり、それらと一国人民全体の「習慣」との相互作用だった。 『文明論之概略』執筆の当時、新政府と民権派の間で公議輿論路線を具体化する民撰議院が最大の争点の一つに浮上していた。 福澤はいわばそれを横目に見て、「始めて真の日本国民を生ずる」課題を、議院という制度の創設よりは、人民一般の「交際」―「仲間」―「演説」「衆議」についての新しい「習慣」を形成することから進めようと構想したのである。
福澤にとって国民形成とは、各人各個の意見を抱いたまま自閉し分裂している意見を、下から、人民のレヴェルから「結合」することだった。 そのための「手段」の中心が、彼が西洋で出あった「仲間の組合」を基盤とする「衆議の法」だった。 そして、それを人民の規模で実現することは「習慣」の変革によってのみ可能だった。 福澤は、それを日本においても可能だ、しかし長い時を要すると覚悟したのだった。
渋沢栄一「夢七訓」、深谷市教育委員会の見解 ― 2021/03/05 07:11
松沢弘陽著『福澤諭吉の思想的格闘』を読むのを、ちょっと休憩する。 2月24日に「渋沢栄一「夢七訓」の教育と疑問」を書き、25日に<追記>をした。 そこで気になったので、2月28日に埼玉県深谷市のホームページの「問い合わせ」フォームで、下記の質問をしてみた。
「渋沢栄一の大河ドラマ『青天を衝け』の宣伝、「50ボイス」を見ていたら、深谷市の八基小学校の子供たちが、渋沢栄一の「夢七訓」なるものを暗誦して、校長先生も夢を尋ねられていました。
公益財団法人 渋沢栄一記念財団のホームページの、「渋沢栄一Q&A」1. 生涯・思想について Q7に「「夢七訓」は栄一の言葉ですか?」という質問があり、A7に「史料館へのお問い合わせが多いご質問ですが、残念ながら、現在のところ原典を確認できていません。渋沢栄一が語ったものなのかどうか、今一度確認する必要があるでしょう」とありました。 教育委員会では、このあたりのことは、当然承知なさっているかと思いますが、どういう判断をなさっているのでしょうか。」
3月4日、深谷市教育委員会の方からお電話があり、つぎのようなお答を頂いた。 教育委員会では、渋沢栄一「夢七訓」の原典が確認できていないことは、承知している。 深谷市では、「立志と忠恕の深谷教育」として渋沢栄一翁の心を受け継ぐ教育に取り組んできた。 学校では、「渋沢栄一翁 こころざし読本」や社会科の副読本などを用い、道徳の授業や社会の授業、総合的な学習の時間などの、いろいろな教育活動で栄一翁のことを学んでいる。 「夢七訓」は、副読本にはない。 ただ昔から、「夢七訓」は、渋沢栄一翁の立志の精神を表わす言葉として、子供たちに志と夢を持たせるために、一部の学校で扱ってきている。
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