ディナーセットの完成、対米輸出成功から現在へ2022/12/26 07:10

 大倉和親は、従来のファンシーラインから硬質・白色のディナーセットへの製品転換を図ること、ディナーセット製造技術の確立という根本的な問題に決着をつけるため、1912(明治45)年3月、欧米への視察旅行に出発する。 オーストリアのカールスパットにあるビクトリア製陶工場などで重要な技術(いくつかの秘密)情報を入手し、同(大正元)年9月に帰国、国内の工場で製法の改善を加え、1914(大正3)年6月にディナーセットが完成した。

 ディナーセットは、アメリカ向けの輸出を伸ばし、1916(大正5)年から20年代における日本陶器のアメリカ向け製品の中で、30%から60%を占める主要製品に成長する。 同社の全製品に占めるアメリカ向け製品の比率は、1917(大正6)年が84%、19(大正8)年は73%、22(大正11)年では72%となる。 1918(大正7)年から、アメリカでの日本陶器のブランドにノリタケという名称が用いられ、戦間期のアメリカ市場においてノリタケ・ブランドが確立、そのディナーセットは、ヨーロッパの一流メーカーに匹敵する商品として各家庭に普及する。

 ディナーセットを完成したのちの日本陶器は、利益率などからみて安定的な業績を上げ続ける。 同社の経営の成功は、TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業などの設立の直接・間接の契機となる。 たとえば、日本ガイシは、日本碍子株式会社として1919(大正8)年に日本陶器から独立したのが、その始まりであり、さらに今度は1936(昭和11)年設立の日本特殊陶業の母体となっている。 なお、現在、日本陶器から改名したノリタケカンパニーリミテド、日本ガイシ、日本特殊陶業などは、いずれも自動車関連の部品や製品を製造しており、森村組に源流を持つ企業が、現在に至るまで日本の輸出に寄与していることがわかる。

 福沢の思想的影響を強く受けた森村市左衛門は、日本の教育・研究活動の振興にも関心を抱いた。 彼が最初に本格的支援を行った研究者は北里柴三郎、福沢が伝染病研究所の土地と建物を提供すると、市左衛門は研究用の器具いっさいを取りそろえる費用を寄付した。 1899(明治32)年ニューヨークに駐在していた長男の明六と弟の豊が相次いで亡くなったのをきっかけに、市左衛門は二人の名前の一字ずつをとって、組織的な社会貢献を行うために、豊明会を設立した。 1914(大正3)年には、財団法人森村豊明会に組織替えし、日本女子大、早稲田大学、慶應義塾、東京工業大学などへの支援活動を続けた。 森村学園は、70歳になった市左衛門が自分の理想とする教育をするために自邸の庭で始めた南高輪幼稚園がその始まり、アメリカで保育教育を受けた人を主事にした。 日本女子大の設立に関わるなど女子教育を重視、リベラルな人材育成、専科担任、外人による英語教育。

 大森一宏さんは「おわりに」、森村市左衛門の経営姿勢とそれを支えた信念の特徴として、ナショナリズムに裏打ちされた強い輸出志向、信用を重んじる経営姿勢、政府から独立した経営を行うことを誇りに感じる精神、最新の情報を入手して時代の先取りを心がける姿勢などがあげられる、とした。 そして、こうした姿勢や信念を形成するにあたっては、福沢諭吉との交流から受けた精神的薫陶が大きな影響を与えていた、と述べた。

 さらに、森村市左衛門は、日本の経済における西欧へのキャッチアップの実現に大きく貢献した企業家の一人として評価できる、とした。

 質疑応答の中で、日本が世界一きれいで、快適なトイレの国であることも、森村市左衛門につながることを気付かせられたのだった。

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