楠木軍が河内、和泉を席捲、護良親王も起つ2023/02/19 07:47

 年が明けて正月5日、赤坂の南西、河内国甲斐荘に乱入、駆逐、9日後、河内国守護代丹下氏、池尻氏、地頭の俣野氏、さらに和泉国地頭の成田、田代、品川などの諸氏を立て続けに破った。 和泉国の御家人、地頭たちは、結集、800余の連合軍を成し、堺の地で楠木軍を待ち構えたが、100以上の死者を出してあっという間に瓦解した。

 鎌倉の京の出先である六波羅探題は、楠木軍が京に上って来ることを恐れ、直属の侍、警固の武士、畿内5か国の御家人に動員をかけた。 六波羅軍は7千、楠木軍は2千、まともに戦っては勝てるはずはない。 だが正成は、退却しての籠城に切り替えずに、六波羅軍に攻撃を仕掛けることに決めた。 一つは兵糧が十分に用意できており、二つ目は鎌倉方を引き付けるためだった。 続いて護良親王が起つことは、予め打ち合わせしていた。

 楠木軍は淀川を挟んで、六波羅軍と対峙した。 正成が率いていたのは僅か3百、六波羅軍は淀川を渡河して突撃してきた。 楠木軍は逃げる、逃げる、逃げる。 軍の半ばが淀川を渡ったその時、突如周囲から喊声が上がって、森、草叢、避難して空となった村から、わらわらと人が現れた。 やがてそれは三つの大きな塊となり、踵(きびす)を返した楠木軍も塊の一つと合流して、六波羅軍の正面に、残る二つは左右から襲い掛かった。 淀川を渡る間に陣形は伸びきっており、先頭は千ほどの集団となっており、そこに2千の楠木軍が三方から攻撃を仕掛けたのだから堪らない。 六波羅軍は浮足立って崩れ、這う這うの態で京へと退却していった。

 元弘3年正月、正成の挙兵より一月遅れて、護良親王が吉野で兵を挙げた。 その数3千。 その報は瞬く間に各地に伝播し、全国の御家人、寺社、そして鎌倉にも衝撃を与えた。 六波羅の援軍の要請を受け、北条氏九代得宗、北条高時は関東8か国の有力な御家人に出陣を命じた。 その数、実に30万とも言う。 そんな中、六波羅の軍勢の中にいた播磨佐用の小領主、赤松則村(のりむら)円心が領地に帰ると、1月21日鎌倉に対して叛旗を翻した。 円心は三男の則祐(のりすけ)を護良親王の側に置いていた。

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