「編集」という方法、父の「組み合わせ」と母の「取り合わせ」 ― 2024/09/04 07:14
松岡正剛さんの『語る―人生の贈りもの―』は、「「わかりやすさ」に抵抗がある」で始まる。 反論があると言ってもいい。 むしろ複雑なもの、畳み込まれたもの、組み合わされたもの、重畳的であるということに、ものすごく惹(ひ)かれる。 たとえば、あるお菓子を「雪見だいふく」と名付けるのは上手なネーミングだとは思うけれど、それ以上に、大福とアイスクリームが一緒になったことが重要だ。 それこそが「編集」という方法だ。 モノ自体も見るけれど、方法だけを見るにはどうしたらいいのか。 そのことをずっと考えてきたような気がする、という。
なんだか、よくわからない。 なるほど「「わかりやすさ」に抵抗がある」というだけあって、私などにとっては、わかりやすくない。
松岡正剛さんは、1944(昭和19)年、戦時中の京都に生まれた。 父は呉服商を営んでいた。 悉皆屋というもので、自分では商品を何も持たず、白生地を先染めにするか後染めにするかを決めたり、着物に始まって帯に至るまで、いろんなものを組み合わせてご注文に応える。 注文主の趣味をぜんぶ把握していたようだ。 敗戦後の46年に、東京の日本橋芳町に越し、小学校3年の途中までいて、また京都市下京区、祇園祭で鶏鉾(にわとりほこ)を出す町内に戻った。 父はいわゆる町衆の旦那で、祇園や先斗町で遊びもしたし、歌舞伎や踊りなどの文化を楽しむことに非常に熱心だった。 正剛さんも、わりと小さい頃から南座に連れて行かれ、「一流だけを見ろ」と言っていた。 自分は一流でもなんでもないのに、ただ町衆としては、「ええもんだけ」を見たい(笑)。 顧客に贈りものをしたり、お芝居のチケットを提供したり、旦那衆だから、もてなす方が大事、サービスのし過ぎで、ついには不渡りを出してつぶれてしまう。
母は、同じ呉服屋の大店の娘、演劇が好きで、女学校時代にラジオのドラマコンクールで優勝したといい、絵も、俳句もうまいし、小唄も上手だった。 父と結婚してからは一切そういう才能を見せなくなったが、正剛さんにはすごく影響を与えてくれた。 鉛筆の削り方から文字の書き方、本の読み方まで。 ルビの入っていないところに自分で入れてみなさいと促したのを覚えている。 それから、京都らしい旬のもの、来客に出すお茶が季節ごとに変わるとか、そういうモノとコトの取り合わせを教えてくれた。
(私の父も「一流」ということを言っていた。<等々力短信 第753号 1996.10.25.>「渚ホテルから」に、こう書いていた。「幼時に上京して、養子として育った私の父は、家族団欒をとりわけ大事にした人で、よく家族で食事に出かけた。 子供の友達が来れば、一緒に連れて行った。 父の基準の「一流」が、世間の評価と一致するかどうかわからないけれど、子供には幼い時から「一流」のスポーツを観せたり、レストランで食事を共にしたりすることによって、雰囲気になれさせたいという気持があったようだ。」)
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