八代目三笑亭可楽と「本格」2008/04/28 07:17

 このいい季節に生まれたのだ、と毎年のことだが思う。 そしてちょっぴり、 おふくろのことを考えたりする。 誕生日が来て、67歳になった。

  若葉風兄貴の死んだ歳になり

 立川談志は昭和11(1936)年生れだから、その兄貴と同い年になる。 『談 志絶倒 昭和落語家伝』の中に、八代目三笑亭可楽が寄席で「噺家ってェと汚い ように思いますが、汚かねえんですよ。毎日湯に入ってますから」といい、少 年談志が驚いた、という話がある。 戦後、子供の頃の談志が家で入っていた のはドラム缶風呂だった。 今もそうだが、談志宅は確か大田区の鵜の木にあ る。 銭湯は近所になくて、目蒲線に乗って蒲田や奥沢に通ったから、めった に行けない銭湯だった、それで驚いた、というのである。 今私は奥沢に住ん でいるから、この個所には敏感に反応した。 談志は、どこの銭湯に来たのか と、思ったのである。

 晩年になって花の咲いたその三笑亭可楽を、談志はあまり評価していない。  そのころ俗に「本格」といわれていた五人衆は、文楽、志ん生、円生、三木助、 小さん。 可楽は「本格ではない」ということになっていて、正蔵、柳枝もそ の部類だった。 民放の時代になって、ラジオ東京(TBS)が専属制度を始め たとき、出口一雄プロデューサーは、その五人衆からNHKにレギュラーで出 ていた三木助を除いた、文楽、志ん生、円生、小さんに、「娯楽品」ともいうべ き昔々亭桃太郎、春風亭柳好、あとで桂右女助、三遊亭円遊を加えた、と談志 はいうのである。

 40年前の昭和43(1968)年3月14日、TBS東京放送が第五次落語研究会 を始めた時、レギュラー・メンバーにしたのは、文楽、円生、小さんに加え、 正蔵と円遊だった。 すぐニッポン放送専属に変っていた志ん生は、倒れたあ とだったし、可楽は昭和39年に死んでいたが…。