小説『麦藁帽子』と関東大震災2013/08/02 06:45

 堀辰雄の小説『麦藁帽子』は、母同士が知り合いだった兄弟姉妹の多い一家 に合流した、C県T村海岸の避暑地での初恋の話だ。 「私は十五だった。そ してお前は十三だった。」と始まる。 私は、お前の兄たちと、苜蓿(うまごや し)の白い花の密生した原っぱでベエスボオルの練習をしていて、田圃の中に 墜落、どぶ鼠になる。 近所の農家の井戸端に連れられて行き、素っ裸になる。  小さな弟と、苜蓿の白い花を摘んで花環をつくっていたお前が呼ばれて、駆け つけてくる。 「素っ裸になることは、何と物の見方を一変させるのだ! い ままで小娘だとばかり思っていたお前が、突然、一人前の娘となって私の眼の 前にあらわれる。素っ裸の私は、急にまごまごして、やっと私のグローブで私 の性(セックス)をかくしている。」 二人だけ残して、みんなはまたボオルの 練習をしに行き、「お前が泥だらけのズボンを洗濯してくれている間、私はてれ かくしに、わざと道化て、お前のために持ってやっている花環を、私の帽子の 代りに、かぶってみせたりする。そして、まるで古代の彫刻のように、そこに 不動の姿勢で、私は突っ立っている。顔を真っ赤にして……」

 みんなで釣りに行く。 蚯蚓(みみず)がこわい私は、お前の兄たちに釣針 につけて貰っていた。 しかし、しまいには彼等は面倒くさがって、そばで見 ているお前に、その役を押しつける。 お前は私みたいに蚯蚓をこわがらない ので。 お前はそれを釣針につけてくれるために、私の方に身をかがめる。 お 前の赤いさくらんぼの飾りのついた、麦藁帽子のしなやかな縁(へり)が、私 の頬をそっと撫でる。 「私はお前に気どられぬように深い呼吸をする。しか しお前はなんの匂いもしない。ただ麦藁帽子の、かすかに焦げる匂いがするき りで。……私は物足りなくて、なんだかお前にだまかされているような気さえ する。」

 翌年の夏のT村。 「この一年足らずのうちに、お前はまあなんとすっかり 変ってしまったのだ! 顔だちも、見ちがえるほどメランコリックになってし まっている。そしてもう去年のように親しげに私に口をきいてはくれないのだ。 昔のお前をあんなにもあどけなく見せていた、赤いさくらんぼのついた麦藁帽 子もかぶらずに、若い女のように、髪を葡萄の房のような恰好に編んでいた。」  病気で中学から帰っていた村の呉服屋の息子を、お前に紹介される。 呉服屋 の息子からは、その秋、お前への恋を打ち明ける手紙が来た。

 その翌年の夏休みは、有名な詩人に連れられて、或る高原で過した後、お前 の兄たちに誘われて、三たびT村に行く。 そして呉服屋の息子が、血を吐く のを目撃して、T村を去る。

 『麦藁帽子』の「エピロオグ」に、関東大震災が出てくるが、昨日書いた年 譜(新潮日本文学16『堀辰雄集』、編集部作成)の記述とは、少し違う。 地 震で、私は寄宿舎から家へ駆けつけるが、家は焼け、両親の行方は知り様がな かった。 父の親類のある郊外のY村(年譜の四ツ木村だろうか)を目指して、 避難者の群れにまじって歩いていて、お前たちの一家と会う。 すっかり歩き 疲れていた一家を、すぐ近くのY村に無理に引っ張っていった。 大きな天幕 の片隅で、一塊りに重なり合って、寝た。 かなり大きな余震もあり、急に笑 い出したように泣く者もいる。 すこしうとうとすると、誰だか知らない、寝 みだれた女の髪の毛が、私の頬に触っているのに気がついた。 私はゆめうつ つに、そのうっすらした香りをかいだ。 「それは匂いのしないお前の匂いだ。 太陽のにおいだ。麦藁帽子のにおいだ。……私は眠ったふりをして、その髪の 毛のなかに私の頬をうずめていた。お前はじっと動かずにいた。お前も眠った ふりをしていたのか?」

 翌朝、父が到着した知らせで目覚めた。 母は父からはぐれ、いまだに行方 が分らなかった。 家の近くの土手に避難した者は、一人残らず川へ飛び込ん だから、ことによるとその川に溺れているのかも知れないと、父は物語った。

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