雅叙園から白金台、常光寺と畠山記念館2017/10/12 07:23

 大鳥神社の横を通って、目黒川の手前を右折、太鼓橋を渡って、目黒雅叙園 へ。 雅叙園前に「お七の井戸」がある。 本郷追分の八百屋お七は、天和2 (1682)年12月の大火で焼け出され、駒込の寺に避難して知り合った寺小姓 吉三に恋こがれ、吉三逢いたさに自宅に放火して、鈴ヶ森で火刑に処せられた。  吉三は、お七の火刑後、僧侶になり、名を西運と改め、明治13年頃までこの 場所にあった明王院に入り、境内のこの井戸で水垢離を取り、目黒不動と浅草 観音の間、往復十里の道を念仏を唱えつつ隔夜一万日の行を成し遂げたといわ れる。 なお、雅叙園から目黒駅方面へ登る、行人坂の大円寺から出火して、 江戸中を焼いた「目黒行人坂の大火」は、明和9(1772)年2月29日に起っ たから、場所はすぐ上だが、お七物語の大火とは別物である。

 その雅叙園から目黒駅方面へ登る行人坂は、急坂である。 途中の大円寺の 住職は、家内の中学の同級生だ。 中学の修学旅行の折、お父上の先代住職の 縁で、比叡山延暦寺の見学に厚遇を受けたそうだ。 今回、行人坂の急坂を回 避する「裏ワザ」を教わった。 雅叙園の滝裏からの景色を眺めたあと、雅叙 園アルコタワーアネックスのエスカレーターで、杉野服飾大学の道へ出られる のだ。 この道沿いに、兄が亡くなるまで住んでいたので、会社の清算事務を するのに通っていた。 歩こう会に「裏ワザ」ではと、幹事の越知さんは躊躇 していたが、すでに11,000歩を超え、へらへらになっていた私などは、大い に助かった。 昼食は? と訊けば、白金だという。 まだ、少し歩かなけれ ばならない。

 待望の昼食は、プラチナ通り(外苑西通り)の「白金台 すし兆」、先付け三 品に、「おまぜ」と称するばらちらし、赤だしと白味噌の椀。 どら焼きまでも らって、おなかはいっぱい、元気を回復した。 プラチナ通りの先で、芝白金 三光町育ちの岡田幸次郎さん推薦のChocolatier Ericaに寄ったら、皆さん奥 さんにお土産を買ったのだった。

 上大崎常光寺の「福沢諭吉先生永眠之地」の碑へ行く。 「永眠之地」に違 和感があるが、それはあとで書く。 私などは、昭和52(1977)年に麻布善 福寺に移された福沢先生の墓より、高校時代、命日の2月3日に落第しないよ うにとお参りした、常光寺のほうが懐かしい。 福沢先生は例の朝の散歩で、 三田からこの近辺まで来ていて、閑静で眺めがよいと気に入り、あらかじめみ ずからの埋葬地と定めたのだそうだ。 慶應志木会・歩こう会が、ここから三 田まで歩こうというのは、まことにふさわしいといわねばならない。

 幹事が発見してあった坂を昇って、白金台の畠山記念館へ行く。 私は初め てだったが、鬱蒼とした大樹と庭園が素晴らしい。 秋季展、新収蔵記念「近 代数寄者の交遊録 益田鈍翁・横井夜雨・畠山即翁」展を開催中だった。 即 翁・畠山一清(1881-1971)は荏原製作所の創始者。 80年忌という鈍翁・益 田孝(1848-1938)は松永安左エ門との関係で知っていたが、夜雨・横井半三 郎(1883-1945)は知らなかった。 実業家で茶人、美術コレクターたちの交 遊と、小田原の地は関係が深かったようだ。 展示されていた、朝鮮時代(16 世紀)の柿の蔕(へた)茶碗、銘「毘沙門堂」(重要文化財)で、即翁が晩年の 鈍翁をもてなした「沙那庵」という茶室が畠山記念館にはあるそうだ。

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