「古今伝授」北村季吟→柳沢吉保、「六義園」2018/10/11 07:12

 川口祥子さんの「柳沢吉保と六義園」のお話で、私が全く無知だったもう一 つは「古今伝授(こきんでんじゅ)」というものだった。 これも『広辞苑』を 引いてみる。 「古今和歌集の語句の解釈に関する秘説などを特定の人に伝授 すること。三木・三鳥が中心で、切紙伝授を生じた。東常縁(とうのつねより) に起こり、宗祇に伝わる。」とある。 三木(さんぼく)は、通例「をがたまの き」「めどにけづりばな」「かはなぐさ」とする。 三鳥(さんちょう)は、「よ ぶこどり」「ももちどり」(または「みやこどり」)「いなおおせどり」。 切紙伝 授(きりかみでんじゅ)は、奥義とする秘説を切り紙に記して伝授する形式。

 川口祥子さんは、「古今伝授」(ちょっとした秘密、口伝)を和歌正統の流れ として、定家→為家…→宗祇(連歌の第一人者)…→細川幽斎(武将。石田三 成が幽斎の城を取り囲んだ時、天皇が動き「古今伝授」を助けた)→松永貞徳 (俳諧の先祖)→北村季吟→柳沢吉保(元禄13年)とした。 宮中系から、貞 徳以後は学者系へ。 柳沢吉保は六義園を造園したが、元禄8年に土地を拝領 し、15年に完成させた。 北村季吟は、六義園設計のブレーンか、と川口さん は考える。

 「新(にい)玉津嶋神社」。 これより先、文治2(1186)年俊成が自邸内に、 勅旨で、玉津嶋明神を勧請(和歌のプロ化)。 その後、焼失・再建を繰り返し、 冷泉家により再興。 京都下京区、烏丸通松原西入るにあり、玉津嶋町の名が 残る。 俊成町に、俊成社もあるが、可哀そうにビルの一角になっている。 天 和・元禄年間、北村季吟が神官として勤める。 元禄2(1689)年、北村季吟 が66歳で幕府歌学方になったのが、柳沢吉保(32歳)との出会い。 北村季 吟は、和歌・古典研究の大家、そのおかげで『源氏物語』が、従来の面倒な(お 金を出して借り、期間も短い)写本ではなく、お金を出せば買える印刷本とな り、字の読める大衆に広まった、頭注を初めて付けた。 

 「六義園」は、柳沢吉保が元禄8(1695)年にこの地(旧前田邸。加賀百万 石は各地に土地を持っていたが、莫大な維持費がかかった)を拝領、9(1696) 年、千川上水の水を引き入れて(他に小石川御殿(綱吉の御殿、今の植物園)、 湯島聖堂、寛永寺、浅草寺(1700年代、寛永寺に乗っ取られた、明治維新で独 立)などに給水)、「和歌浦」を模して造園した。 この水が無ければ、園内に 「和歌浦」は造れない。 それが可能だったのは、将軍綱吉と柳沢吉保の一心 同体と言ってもよい関係があったからだ。 15(1702)年完成、将軍綱吉の一 人娘・鶴姫、八重姫、寛永寺公弁法親王など、多くの貴人が訪れた記載が『松 蔭日記』にある。

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