福沢索引2006年12月のブログ・武田晴人教授の「荘田平五郎と三菱の経営近代化」[昔、書いた福沢251]2020/04/29 07:22

荘田平五郎の人物、慶應から三菱へ<小人閑居日記 2006.12.16.>

 11月17日の武田晴人東京大学大学院経済学研究科教授の「荘田平五郎と三 菱の経営近代化」。 荘田平五郎(弘化4・1847-大正11・1922)は、豊後(大 分)臼杵藩の藩儒の長子で、20余年にわたって儒学を修めた上士であることが、 その事業観、経営者としての行動原理に反映していた→荘田の「公」意識、企 業の社会的貢献重視の姿勢(竹村英二「荘田平五郎の言動と武士的素養」)。 慶 應3・1867年、洋学奨励の布告に沿い、選抜されて江戸遊学。 明治3・1870 年、慶應義塾入塾、平五郎の才能を高く買った福沢は、入塾4か月後、教師待 遇とする。 『帳合之法』(複式簿記)の訳業に参加、明治5・1872年には大 阪に赴任し分校の設立に努める。 明治7・1874年、三田に戻り、教鞭をとる。  経済学を講じたばかりでなく、商業数学・簿記などをカリキュラムに入れるこ とに熱心だった。

 明治8・1875年、三菱に翻訳係として入る。 福沢は「学問をやらしても、 算盤を弾かしても、荘田はふたつながらにできる」と評価。 入社の年に制定 された「三菱汽船会社規則」の起草に参画したと推定され、翌明治9・1876年、 会計係に配置転換、その後三菱汽船会社の経理規程「郵便汽船三菱会社簿記法」 をまとめた。 これにより三菱は、大福帳経営を脱し、日本で初めて複式簿記 を採用し、徐々に近代的な経営システムを確立した。

 荘田平五郎は、慶應義塾でもそうだったが、三菱でも、数か月で頭角を現し、 周囲から尊敬される人物となるのだった。 岩崎弥太郎たちも荘田の才能・能 力を認め、荘田は三菱に不可欠の人材になっていく。

荘田平五郎と三菱の経営近代化<小人閑居日記 2006.12.17.>

 荘田平五郎が三菱の経営近代化に、どんな役割を果し、功績があったか。 

(1)管理的組織の整備。 昨日みた「郵便汽船三菱会社簿記法」の制定以 下、三菱社・三菱合資会社の会計・管理規定の整備を推進した。 三菱におけ る近代的簿記法の導入、複式簿記の採用(これに対し、例えば古河は明治30 年頃まで大福帳で、足尾鉱毒事件で必要になった100万円を借りようとして、 渋沢栄一の第一銀行に帳簿の整備を求められている)。 各事業所からの月次報 告を出させることで本社が情報を掌握する集権的管理の条件を整備した。

(2)事業経営の多角化。 そのタネを蒔き、育てた。 一つは明治22・1889 年の三菱地所の丸の内計画。 もう一つは、銀行経営。 臼杵藩士族が共同出 資して設立した第百十九銀行を救済して、三菱合資会社銀行部をつくる。 そ れが日清戦争の時期に、ようやく三菱銀行になる。

 (3)造船・重工業の確立。 官営だった長崎造船所の経営を引き受け、改 革した。 政府からは八幡製鉄所についても打診があり、当時の三菱には造船 か製鉄かの選択肢があったが、造船を選んだ。 荘田は三菱の経営トップのま ま、自ら長崎造船所所長となって、家族を連れ長崎に行った。 造船所は修理 だけでも仕事が沢山あり、それは短期で回転し収益もあったが、あえてリスク のある新造船へと舵を切った。 大型船建造の指揮をとり、会計組織を改革し、 従業員の福利厚生にも配慮した。

 荘田平五郎の事業観の、「公」意識、企業の社会的貢献重視の姿勢というのは、 「財閥は人のやれない難事業を引き受けて国家に報いるべきだ」というその信 念や、事業の育成よりも目先の利益を優先したり、投機的な会社設立に奔走す る企(事)業家への批判にあらわれている。

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