「応仁の乱」前夜、混乱の時代の幕開け(後半)2020/04/01 06:57

 日本の気候変動を研究している中塚武名古屋大学大学院教授は、年輪や樹木 の成分から(私が部活動でお世話になった『寒暖の歴史 気候700年周期説』 の西岡秀雄先生と同じ方法だ)、室町時代は日本の異常気象、「応仁の乱」の頃 は最悪の時期で、その前夜の、この嘉吉元年は気温が低く、雨の多い年で、 農民は水害や飢饉の発生を恐れていたという。

 一揆の背景として、刀の大増産、槍の発達の時代であり、農民を足軽など兵 力として吸収していたため、彼らに実戦経験があった。 金融業者・高利貸の モラルハザードがあり、金持は有徳人で、施しをしなければならない、一揆は、 その金を強制的に吐き出させる、格差是正として正当化された。 9月5日、 一揆勢は東寺を占拠、要求が容れられなければ、火を点けると脅した。 東寺 は、酒と枝豆を出したりした。 呉座勇一さんは、寺社が税金を取るのは豊作 や安寧を祈る存在だからという建前だったのだが、その信用が崩れたと言い、 井上章一さんは、それをこの東寺で言うかと笑った。

 一揆には、新興勢力である馬借(都市に物を運ぶ運送業者。『日葡辞書』には ずばり「一揆」とある)が加わり、馬借の登場で同時多発的な動きが重要な一 揆は、大規模化した。 馬借は、運送することによって格差社会を実感してい たのだ。 公と私利私欲が程よい関係だと安定しているが、新しい経済が出現 すると格差が拡大する(AI長者のような)。

 管領細川持之、守護大名畠山持国は、一揆の武力制圧に反対した。 赤松討 伐のため、幕府軍は留守で、9月12日、徳政令が発令された。 赤松満祐は自 害し、山名持豊(宗全)は、播磨に居座る。 嘉吉2年、細川持之病死。 問 題先送りで、応仁の乱となる。

 畠山持国は管領となるが、足利将軍家および管領畠山・斯波両家の家督争い が続き、それをきっかけに東軍細川勝元と西軍山名宗全とがそれぞれ諸大名を ひきいれて京都を中心に対抗し大乱「応仁の乱」となった。