付け句「初御空」の巻 名残の折2020/04/25 06:54


どんど焼きに浜の夜空の焦げに焦げ(1月12日)
  正月は曽我もの五郎十郎虎
書き割りの富士はしけやし初芝居(1月17日)
  独壇場はお軽勘平
其角忌のもう真白や雪の橋(2月29日)
  お頭は敵を欺き山の奥
灯ともりて谷に一軒スキー宿(1月21日)
  指導員にして絶世美人
滝道を足跡もなく雪女郎(1月22日)
  泡喰ふて即逃げ下りる里
かまくらや雪すくなきをかこちつつ(2月16日)
  同じ言の葉暖かき街

実朝忌うみ呼ばふこととこしなへ(2月20日)
  宋船の帆下ろす和賀江島
眼つむればさらに煌めき春の海(2月18日)
  土手の道波の運びし砂の丘
小浜あり野梅の径を下り行けば(2月9日)
  海流入れ込む油壷
海原がひらけ菫の花二輪(2月12日)
  宝塚音楽学校ご入学
犬ふぐり南なだりに日を讃へ(2月25日)
  気の毒な名ながら実も可憐
汚れはてたる恋猫や名とて無く(2月22日)
  吾輩の猫知らぬ人なし

素魚のすこし黄ばみてやんちゃなる(2月28日)
  車屋の黒天秤棒で殴られて
いかなごの素干なづけて源五兵衛(3月20日)
  棒手振の魚屋の名は源五郎
踏切の鳴つてゐる間を蝶過ぎる(4月10日)
  なかなか開かずの横須賀線
身にそひし町暮らしかな寒雀(1月6日)
  花立てありしボンネットバス
歩道橋から旧正の富士望み(1月25日)
  鴫立庵の春の夕暮
ねがはくは佳きこともがな東風にの(3月4日)
  むかしはやりし凧うなるなり

武藤山治の先見性<等々力短信 第1130号 2020(令和2).4.25.>2020/04/25 06:56

 武藤治太著『武藤山治(さんじ)の先見性と彼をめぐる群像~恩師福澤諭吉 の偉業を継いで~』(文芸社・2017年)を、コロナウイルス騒ぎの引き籠りに 読んだ。 武藤治太さんは、山治の孫、昭和35年慶應義塾大学法学部卒、大 和紡績に入り、社長、会長まで務め、山治が政治意識の向上のために創設した、 大阪城前の國民會館の会長だ。

 武藤山治(1867-1934)は、美濃国(岐阜県)の豪農佐久間家の長男として 現在の愛知県弥富市に生れ、『西洋事情』に感激した父国三郎に連れられ、14 歳の時、慶應義塾和田塾(幼稚舎)に入る(『福澤諭吉事典』は、父から聞いた 三田演説館の話に憧れ、明治6(1873)年(7歳))。 福沢散歩党の一人とな り、明治17(1884)年慶應義塾卒業、翌年学友和田豊治、桑原虎治と渡米、 ひとりスクールボーイとしてサンノゼのパシフィック大学に入り苦学する。  帰国後、武藤家の養子となり、広告代理店創始、ジャパン・ガゼット社記者、 後藤象二郎秘書で大同団結運動に参加、イリス商会勤務を経て、26年中上川彦 次郎にスカウトされて三井銀行に入り、翌年鐘淵紡績株式会社(中上川副社長 (事実上の社長)・朝吹英二専務)に移る。 中国市場を見込んだ4万錘の鐘 紡兵庫工場を2年で完成する。 32年、同社支配人となるが、39年、安田財 閥をバックとする鈴木久五郎の鐘紡株の買占めにあい退社。 41年、武藤の復 帰運動が起り、監督という訳の判らぬ職名で復帰、専務、大正10(1921)年 社長に就任する。

 武藤山治の鐘紡の革新的経営、その先見性を見よう。 生産会社には、生産、 販売、労務の三要素があるが、一番力を入れたのが労務、人間尊重と家族主義 的経営だ。 職工の優遇、福利厚生施設の充実、たとえば学校、託児所、娯楽 施設をつくり、提案制度、社内報も日本で最初に始めた。 生産は、最新鋭の 機械を金に糸目をつけず導入、テーラーシステムを取り入れ工場管理を徹底し、 高品質の糸を紡出した。 販売では、アメリカ仕込みの宣伝を採用する。 さ らに、他の紡績会社に先駆けて、紡績プラス織布の兼営、綿布の生産に手を延 ばす。 輸入機械でなく、当時売り出しの豊田自動織機を最初に採用、意気に 感じた豊田佐吉が一か月間兵庫工場に居続け、機械を調整した。

 一方、大正12(1923)年実業同志会を作り政界に進出、翌年衆議院議員と なり、官業民営化や首相公選制を提案、治安維持法に反対する。 鐘紡社長辞 任後、政界も引退した昭和7(1932)年、請われて時事新報の経営再建に尽力、 論説も書き、9年1月から「「番町会」を暴く」の連載を始める。 政府の救済 を受けた台湾銀行保有の帝人株が、密かに政官財界の要人に安く売られた疑惑 (帝人事件)だった。 3月9日、自宅から北鎌倉駅への出勤途上、暴漢にピ ストルで撃たれ、翌日亡くなった。