日清戦争に備えた陸海軍の軍拡2020/11/03 07:02

 坂野潤治さんの『帝国と立憲』で、福沢諭吉関連のところを読んできた。 全部を同じように読むわけにはいかないので、それを補いつつ、大事だと思うところを書いておく。

 坂野潤治さんは、福沢が1年2ヵ月前の『時事小言』の主張をあっさり放棄して、1882(明治15)年11月に『兵論』を刊行したことについて、こう書いている。 「哲学者よりは新聞記者のほうが変わり身の早いことは、今日のわれわれもよく知るところです。しかし、福沢は、平然と一年少し前の自分の主張を批判の対象とする、研究者泣かせの言論人でした。」

 「明治14(1881)年の政変」で9年後に国会を開くという約束を詔勅でした以上、「天皇制立憲主義」に移らなければならない。 政府の主流だった保守派は、政府権限が強く議会権限の弱い憲法を、議会の開設の前に天皇の名で制定しようと考えた。 天皇が定めて国民に公布する憲法を「欽定憲法」と言う。 このような保守的な憲法案でも、1890(明治23)年に開設される議会には予算審議権が与えられることになっていて、1890年以後は、議会の同意なしに陸海軍の軍拡は行えないことになる。

 一方、急進派のグループ(自由党系)は、憲法そのものではなく衆議院を握ることをめざし、農村地主を中心とする地方の有力者たちの支持を固めていた。 彼らは1885(明治18)年の天津条約締結前後には、「政費節減・民力休養」(行政費を減らして減税(地租軽減)を行え)をその基本政策として確立した。 議会が開設されると、このグループが多数を占めるであろうことは、予見できた。

 政府側としては、議会開設前に、より正確には1891(明治24)年度予算案の審議前に、陸海軍事費の増額、軍拡をする必要があり、4年間で48隻の軍艦を欧米から購入する計画に着手した。 国会が開設した時には、対中戦争に備えた海軍軍拡は、基本的には完了していた。

 しかし、国会開設以後の数年間は、衆議院の多数を占める自由党や改進党の「政費節減・民力休養」要求のため、新規の予算増額は困難で、対中戦争に備えての陸海軍軍拡は停滞する。 そのままでは、また中国に抜かれるかもしれない。

 天皇の名で制定された憲法の機能不全は、天皇の名で解決する以外はなく、1892(明治26)年2月10日「和協の詔勅」が出る。 まず重要なのは、対外関係の重要性の強調で、「世界列国の進勢は日一日急となっている。そのような時に当たって日本国内で紛争が続き、遂に国家の大計を忘れ、国運進張の機を誤るようなことがあっては」ならない。 「世界列国の進勢」は、具体的には「中国の進勢」と理解しなければならない、坂野潤治さんは「誇大な表現の真の意図を理解することは、今日でも大切なことです」と。 第二に重要なのは、宮廷費を6年間毎年30万円政府に下付し、「文武の官僚」は6年間俸給の1割を返上させて製艦費に充てるので、議会も政府提案の軍艦製造費を承認してほしい、という詔勅だった。

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