秋、米団治を襲名する小米朝2008/05/04 07:06

 小米朝が落語研究会に来るのは、楽しみになった。 かつての枝雀や吉朝のように。 面白くて、上手い。 ベッカム頭で、ニコニコと出て来た。 上方 の人しか着ない派手な薄紫の羽織(藤色というのか)、小紋みたいに、やや濃い 同色の水玉が模様になっている。 目のまわりがくぼんで、耳たぶが大きいと ころは、やはり人間国宝に似ている。 上方でも一味違うポジションにいると、 例によって自ら「御曹司」「アホボン丸出し」と名乗る。 秋には、桂米団治を襲 名するそうだ。 きっかけは、ざこば(兄さん、という)が左手を振って言っ てくれた、東京では正蔵や三平が賑やかに誕生したのに「ウチの一門は葬式ば かり」と。 米朝は、まだ生きてる。 米団治は、米朝のさらに師匠の名前、 それが五十数年空いていた。 米朝は、四十、五十でどうかといわれ、まだま だといっているうちに六十、もう遅いとなって、継がなかった。

 京都、大阪、神戸の三つを合わせて上方。 上方といっても、実質経済は下 方で、橋下知事は苦労している。 大阪と京都は、のぞみで13分だけれど、 すごく違う。 京都は大阪をバカにしていて、京都とあとの関西、と思ってい る。 羽織を脱いで、明治初年、と「胴乱の幸助」に入った。 後半、けんか の仲裁が道楽の、大阪横町(よこまち)の割木屋のおやッさん、幸助さんは京 都の柳の馬場押小路へ、汽車で行かずに、三十石船で行く。 『続 米朝上方落 語選』(立風書房)の解説で、米朝は京都大阪間に鉄道が開通したのは明治10 年2月、三十石船の廃止がいつかはっきりしないので、明治10年から明治13,4 年にできた噺だろうという。

 筋はその本を読んでもらうとして、若干の用語解説。 割木屋は薪屋、煮売 屋で生節(なまぶし)を仰山買うて犬にやる、つぶれる「でんぼ」は腫れ物(米 朝は「できもん」でやっている)、去(い)にしなになんか折りでもこしらえて …。 小米朝の「好きこそものの浄瑠璃なれ」というのは、米朝にはなかった。