山川健次郎がアメリカで学んだこと2013/08/17 06:30

 山川健次郎は、鉄道で大陸を横断し、東海岸のニューヨークとプリンストン の中間にあるニューブランスウィックという学生街に着く。 この街には20 人ほどの日本人留学生が来ており、薩摩の畠山という人が面倒を見ていた。 勝 海舟の子、子鹿(こじか)も来ていて、その子鹿を頼って来ていた高木三郎が、 親切に健次郎の世話をしてくれた。 エール大学に入るには、日本人のいない 街へ行き、死ぬ覚悟で勉強しなければ無理だといわれ、ノールウィッチという 街の中学校に入った。 半年ほどで日常会話に不自由しなくなり、イギリスの 哲学者ハーバート・スペンサーの書物を読み、社会をよくするためには自然科 学の学問が必要と知り、科学の基礎である物理学を学ぶことにする。

 一年後の明治5年の夏、健次郎はエール大学の予備門、附属のシェフィール ド理学校に見事合格した。 物理学科がなかったので、土木科に入った。 エ ール大学はニューヘブンの街にある。 前年、妹の咲子が捨松と名を変え、女 子留学生としてワシントンに来ていたのを、明治5年の晩秋、ニューヘブンに 呼び寄せる。 永井繁子と一緒だった。

 明治7年、本国で国費の日本人留学生が勉強せず、ふしだらな生活をしてい ることが問題になり、文部少輔九鬼隆一が調査に来て、全員に帰国命令が出た。  学業半ばで帰国するわけにはいかない。 健次郎はクラスメートに窮状を訴え、 その一人ロバート・モーリスの大富豪の叔母ハンドマン夫人が証文を書くこと を条件に援助してくれることになった。 「学業成就して本国に帰りたるのち は、力の限り本国のために尽力することを誓います」。

 健次郎がバチェラー・オブ・フィロソフィー、理学士の学位を得て、4年半 に及ぶアメリカ留学を終えたのは、明治8(1875)年5月のことだった。 ア メリカは世界文明の先覚者ではあったが、その半面、暴力がはびこり、黒人に 対するひどい差別があり、それらが混然とした不平等な社会だった。 しかし 理不尽なことが度を越すと、市民運動が広がり、権力者に立ち向かう勇気があ った。 健次郎はアメリカで、物理学だけでなく、公正と正義を学んだのだっ た。

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