啓蒙、自由民権の時代から、渡米決意へ2016/07/10 06:32

 (3)啓蒙の時代―1878~80年。 明治政府の開明性や革新性に対する馬場 の期待は大きかったが、馬場が英国から帰国して三日後には大久保利通が暗殺 され、その後の明治日本の歩みは、馬場の描いた明治像からはしだいに遠ざか っていった。 馬場の活動は、1878(明治11)年5月の帰国以降、80年7月 までの共存同衆(および三田政談会)、それ以降は国友会での講演が中心だった。  共存同衆は、馬場より先に帰国した小野梓が、ロンドンで組織した日本学生会 を基盤に創立した学術啓蒙団体。 馬場の思想の中核は、天賦人権論による「自 由・平等」、「人民」、「公議輿論」の三つに集約できる。 78年9月の「社会論」 は馬場の基本的姿勢が凝縮された、馬場の日本における決意表明だ。 圧制政 府は人為的に偏重している。 それは「平均力」(重要なのは「公議輿論」)が 作用して打破される。 79年5月に公布された政府官吏の民間での政治演説禁 止の太政官通達は、共存同衆の活動に致命的な打撃を与えた。 小野梓をはじ め英国体験を共有した共存同衆の友人たちが、政府に反発を感じながら地位に 汲々とするなかで、あくまでも在野にあって「民心之改革」につとめ、「不羈独 立」の人材を育成し、「社会共同ノ公益」に資するための政治活動をめざす馬場 にとって、共存同衆はもはや拠点としての意味を失っていた。 こうして馬場 にとって、80年が啓蒙活動から政治活動への転機となった。

 自由民権の時代―1881~82年。 81(明治14)年10月11日、民権運動の 高揚に直面していた政府は開拓使官有物払下問題の鎮静化をはかるために、10 月18日開催予定の自由党結成大会に先立って国会開設の詔勅を発表するとと もに、参議大隈重信を罷免した。 この「明治14年の政変」で大久保亡きあ との明治政権は、薩長藩閥中心の色彩のつよい体制に再編され、在野の民権運 動の側でも政党化の動きが急速に促進され、自由党の結成につづいて、82年4 月には大隈重信を中心とする改進党が結成された。 馬場の政治的スタンスは、 藩閥政府による言論・出版や集会の自由にたいする姿勢と真向から対立するも ので、馬場が自由党に参加した最大の理由はここにある。

 法学教育の時代―1883~85年。 85(明治18)年3月まで明治義塾での教 育を中心に活動。 この間、学者に転身する可能性もあった。 83(明治16) 年7月、福澤は慶應義塾に法律科を設ける計画をし、馬場も教員に迎えようと したが、このとき法律科は実現しなかった。 小野梓も、東京専門学校(早稲 田大学)で、同様のことを考えたが、実現しなかった。

 (4)渡米決意―1885年。 85年3月政談演説「東洋気運の説」を行い、西 欧列強のパワーポリティックスに対抗するために日本は、清に「武力を以て外 面より之が刺撃を与へ以て其改良を促す可き」で、「支那を改良し進で西洋諸強 国が侵略の衝に当り東洋の機運を挽回し以て日清の関係を鎮定せよ」と論じた。  しかし、ついで執筆された『条約改正論』追加では、清への期待が薄くなる。  日本国内の政治活動の閉塞的状況のなかで、馬場みずからが新聞・演説で、英 国、米国の輿論の賛成を得、自国人民の輿論を発達喚起すること以外に道はな かった。 しかし英国の世論には失望し、自由の空気みなぎると思える米国へ の期待が高まる。 日本で「人民」は動かず、民権派は相互に非難しあって自 滅、日本学生会、共存同衆、自由党は、もはや期待できない。

 馬場が大石正巳とともに逮捕され半年余拘留された、いわゆるダイナマイト 購入事件は不慮の事故で、渡米は単なる「亡命」ではなく、もっと積極的な意 味を持つものだった。 国際世論を背景に、明治政府の「外からの改革」の必 要性の不可避なことを悟るにいたっていたのだ。

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