福沢索引2006年12月のブログ・坂野潤治さんの「幕末・維新史の中の議会と憲法」[昔、書いた福沢254]2020/05/02 07:01

幕末・維新史の中の「議会論」<小人閑居日記 2006.12.24.>

 宿題の最後は、12月9日交詢社での福澤諭吉協会の第100回土曜セミナー、 坂野(ばんの)潤治東京大学名誉教授の「幕末・維新史における議会と憲法― 交詢社私擬憲法の位置づけのために―」。 思想史と政治史のドッキングがその 年来の手法だという坂野さんの話は、司馬遼太郎でも読んでいるように、とて も面白かった。

 話は元治元(1864)年旧暦9月大坂での、西郷隆盛(や吉井友実)と勝海舟 の最初の会談から始まる。 西郷に会談を依頼した大久保利通への報告に、西 郷は勝を論破するつもりで会い、勝の人物と見識に「とんと頭を下げ」「ひどく 惚れ申し候」と書いている。 このことは、三年半後の江戸無血開城にもつな がる。 その会談で勝は、「攘夷」でも「屈服」でもない欧米列強との関係「対 等開国論」(その元祖は佐久間象山)と、公武合体派の雄藩、薩摩、越前、土佐、 肥前、宇和島の「藩主(士)会議」をセットにした時局打開の方策を語った。  雄藩の藩主が一致団結して、開国主義を前提にした強硬外交をもって、欧米列 強と対等な関係で「開国」を完成しようというのだ。

 この「藩主(士)会議」の構想は、幕臣で勝の友人の大久保忠寛(一翁)が 本家で、文久3(1863)年、越前の松平慶永に説いたのが最初だとされる。 坂 野さんの話は、「憲法論」と「政治論」は違うと指摘し、「憲法」と「議会」の 関係を問題にするところが重要だ。 この大久保忠寛に始まり、明治4(1871) 年7月の廃藩置県までの8年間、(幕末)「議会論」は日本の政治の主流といっ ていいほどの地位を占めていた、とする。 勝によって「幕末議会論」は、薩 摩藩の革命家、西郷隆盛や吉井友実、さらに二人から大久保利通に受け容れら れ、政治的実践の目標になる。 慶応3(1867)年の「大政奉還」と「王政復 古」(1868年1月)の基となった薩摩藩と土佐藩の「薩土盟約」(1867年旧暦 6月)は、きわめて明確な形で二院制議会を提唱している。 大名(藩主)会 議(上院)と、藩士会議(下院)だ。 大政奉還後の政治体制は、800万石な がら一大名となった徳川慶喜も加えた大名議会で決めるというのが、「薩土盟約」 以来のコンセンサスだった。 封建議会制による無血革命の筈が、明治元年の 戊辰戦争による武力革命になってしまったわけだ。

「交詢社私擬憲法」の画期性と孤立性<小人閑居日記 2006.12.25.>

 坂野潤治さんが、「憲法」と「議会」の関係を問題にするのは、ここからだ。  大久保忠寛、1864年勝・西郷会談、「薩土盟約」(1867年旧暦6月)と流れて くる「幕末議会論」による将軍制度の平和的廃止には、「議会論」はあっても、 「憲法論」はなかった。 議院内閣制においては、憲法(あるいは不文律)の 規定によって、行政府の権限と議会の権限が定められ、議会の多数党が行政府 を握るのである。 大政奉還後、「朝廷」が自ら行政府にならないかぎり、新政 治体制には行政府、すなわち「政府」が存在しない。 権力政治的に見れば、 この「政府」は徳川家を中心に組織されるか、あるいは薩長両藩を中心に組織 されるかのどちらかであり、政治史的に見れば、それを決めたのは鳥羽・伏見 の戦いである。 一戦やって勝った方が「政府」を握る。 しかし、中央政府 の権限もその正統性も、明治4年7月の廃藩置県までは、そう簡単には決まら なかった。 戊辰戦争に勝った薩長土の三勢力が握れた政府の権限は、旧徳川 家の800万石だけだった。 他の2千万石の年貢の「財権」も、軍隊の「兵権」 も、大小270の藩が握っていた。 王政復古後の明治政府の正統性も権限もき わめて限られたものだったことは、幕末・維新史において「議会論」はあって も「憲法論」がなかったことと符合するのだ。 「憲法」は「行政府」と「立 法府」の双方の権限を定めるために必要なのだ。 「行政府」の正統性も権限 も不完全な間は、「憲法論」そのものが不要だったのである。

 廃藩置県で各藩の「財権」と「兵権」が中央政府に吸収された時に、「憲法」 の必要性にいち早く気づいた木戸孝允は岩倉使節団で、欧米各国の「憲法」に 焦点を定めて視察してきた。 そしてドイツ憲法を模範にすることを決めた。  坂野さんは、戊辰戦争で名を馳せた、いわば武闘派の板垣退助には「民選議院 設立建白書」など書けない、それは幕末議会論と自由民権論の連続性を示す、 とする。 憲法論抜きの幕末議会論が板垣退助らの愛国社に受け継がれ、木戸 孝允のドイツ型憲法が明治14(1881)年4月の「交詢社私擬憲法」(イギリス 型議院内閣制←馬場注記)の画期性と孤立性をもたらした。 それは幕末以来 初めての、「憲法論」と「議会論」の結合だったのである。 それがいわば「議 会論」抜きの「憲法論」(井上毅)と、「憲法論」抜きの「議会論」(板垣退助) の挟み撃ちに合った時、明治14年の政変が起こった、と坂野さんはいう。

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