「継続は力なり」の「力」とは?2009/07/06 06:37

 (『渋沢敬三という人』は、まだまだ続くのだが、いったんお休みする。)  7月4日は、私にとって「わが生涯の最良の日」となった。 表参道の青山 ダイヤモンドホールで、「『等々力短信』1,000号を祝う会」を開いてもらった のだ。 64名の方々(私ども夫婦以外に)が参加してくださって、温かくて、 楽しい、なんとも濃密な二時間を、経験することになった。 私と家内が感激 したことはもちろんだが、集まってくださった方々が皆様、この会を楽しみ、 嬉しそうなお顔で、帰って行かれたことが、なによりもこの会の成功を物語っ ていた。 ひとえに、発起人となって1月からもろもろの準備を重ねてきてく れた五人の友人たちのおかげだ。 いい友達を持ったものである。

 挨拶で私は「『たいへんおおぜいの信者の方々にお集まりを頂きまして』とい うのは春風亭小朝のマエオキですが、こんなに大勢の読者の方々にお集まりを 頂きまして、これほど嬉しいことはございません。」と、切り出した。 以前か ら「書き手は三流だけれど、読者は一流」と言ってきた。 お集まりの大先輩、 諸先生方、同期のお仲間、後輩、それぞれ、社会的に立派なお仕事をなさって きた方ばかりだ。 それが私のような、落語に出てくる「世の中をついでに生 きているような人」の「読者」ということで、お気の毒にも十把一からげにされて、ここにいらっしゃる、と言って、次のような話をした。

「イチローが二千本安打を打ちました時に、「二千本を打った者にしか、見え てこない世界がある」と申しました。 生意気なことを言うと思いましたけれ ど、千号に到達しまして、見えてきたものがありました。 このたび沢山の方 が「継続は力なり」と言ってくださいましたが、「継続は力なり」の「力」とい うのは、どういう「力」でしょうか。 それが、わかりました。 つまらない ことを書いていても、千回続けておりますと、これだけの皆様が集まって下さ る。 「継続は力なり」の「力」は、人を集める「力」だったんですね。」

名前は馬場だが、どうも牛だったらしい2009/07/07 08:11

「『等々力短信』1,000号を祝う会」の会場

 つぎに「継続は力なり」にひっかけて、こんな話をした。 前にこの日記で、 こぶ平から林家正蔵という大名跡を継いだ正蔵が、ずっと古典落語で押してい るのを褒めた時に使ったネタだ。 旧知の正蔵のご親戚にメールしたら、ご本 人が今年のノートの初めに、書き込んでくれたということだった。

大正5年の8月24日に、夏目漱石が、まだ若い新進気鋭の芥川龍之介と久 米正雄に書いた手紙である。 「牛になる事はどうしても必要です。吾々はと かく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。」「あせつては不可せん。 頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を 下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。 うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。」  その部分を読んで、「私は馬場ですが、どうも牛だったらしい」と、話した。

 ここ1,2か月、この日配った「1000号の歩み」をパソコンに打ち込んでいて、 1号からずっと目を通すことになった。 それで気がついたのは、最近流行の 言葉で「ブレない」というけれど、ずっと一貫している。 言い換えると、少 しも進歩がない。 馬場の一つ覚え、バカの一つ覚え。 30代でもう「定年 を迎えた時に、これから本格的にやるぞと、わくわくするような趣味を持って いたい」などと書いていた。 ビジネス・モデルという言葉があるけれど、一 つの趣味のモデル、ホビー・モデルというようなものを示すことが出来たので はないかと思う、と千号を笠に着て、えらそうなことを言ったのだった。

役に立たないことを一生懸命にやっている2009/07/08 05:45

演奏中の<花てまり>(写真by林莊祐さん(昨日のも))

もういい加減に長くなったのだが、最初の方でこんなことを言って、司会の 大島さんに、5分になったら、合図をしてくれるようにお願いしておいた。 書 くほうは、千号も書いてきたから、なんとか書くけれど、しゃべるほうはまる でダメで、14年前の平成7年3月25日の浅草ちんやでの「700号の記念の会」 では、原稿をつくって行き、長々とやって、最後に「簡単ですがご挨拶といた します」と言ったら、どっと笑いが来た。 高校時代からの友人は、目の前に していながら、きょうはスキヤキは食べられないのかと、半分あきらめていた という。

時間が8分を過ぎたというので、この会の発起人になってくれた友人たちを 紹介して、たくさんの拍手を頂いた。 大島良さん、藤原忠男さん、大塚宣夫 さん、端達夫さん、西村一宏さん。 詳細は略すけれど、一例を挙げれば、こ の会をプロデュースしてくれた藤原さんは、大きなイベントやコンサートのプ ロデューサー。 とっさにいい譬えが出なかったが、私は「子供の喧嘩に、航 空母艦が出て来たようなもの」と、言った。 会場には開宴から、フルートと 筝の姉妹デュオ<花てまり>の生演奏が流れていた。

ここで時間を訊くと、ストップウォッチを持った藤原さんが恐い顔で、13分 とか言った。 もう少し用意があったのだが、端折ることにした。 日記を読 んで下さる方は、その分が読めることになった。 これを「バーチャル・リア リティ」という(ちょっと、違うかな)。

 平成2年6月15日の「等々力短信」534号に「アウトサイダー」という題 で書いていました。 その中に南伸坊さんの言葉を引いております。 (3月 にサントリー美術館で国宝三井寺展を見ましたが、三井寺園城寺の中興の祖・ 智証大師円珍という方のおむすび頭が、南伸坊さんにそっくりでした。) 「遊 びのようなことが仕事になっていますけど、やっぱり生活するためにやってい るという意識がどこかにあるわけです。 生活の心配がなくて、役に立たない ことを一生懸命にやっているという状態が、いちばん贅沢なんですね。」と、い うんです。  私は、今がいちばん贅沢な状態でありまして、出来ればこのまま、死ぬ迄う んうん押していこうと思っておりますので、よろしくお願い申し上げます。 あ りがとうございました。

夢心地のお祝いスピーチ2009/07/09 06:36

スピーチする辰濃和男さん(写真・林莊祐さん)

 ここから夢のような時間が始まった。 「『等々力短信』1,000号を祝う会」 は、三人の方に読者を代表してのスピーチをお願いしていた。  最初は朝日新聞の「天声人語」を、足かけ14年四千回近くお書きになった 辰濃和男さん。 辰濃さんが「天声人語」を書き始めたのは1975(昭和50) 年12月からだから、同じ年に始まった「等々力短信」は「戦友」のようなも のだと、まず話された。 「等々力短信」の「力」について沢山書いてきたと 草稿を示し、5分といわれたのでと、四つにしぼった。 (1)落語の力…漱石 の文章にもある落語の影響が色濃い。 (2)福沢諭吉の力…福沢学の大家、 福沢の強い味方、脱亜論や複眼の思想などを説明。 (3)やじ馬的な力…世 の中の新しいコト、モノに鋭敏な感受性をもち、独自の見方で調べにゆく精神。 「等々力短信」で紹介された本を何冊も本屋へ買いに行った、たとえば『笑う カイチュウ』(696号・藤田紘一郎著)。 (4)まとめ力…自著『文章のみがき 方』をとりあげた短信(982号)は、書いた自分がまとめるよりよくまとまっ ていた、馬場さんにはいつか『文章のまとめ方』という本を書いてもらいたい、 と。

 つづいて、芳賀徹さん。 昨年『源氏物語』千年紀を主導された芳賀さんが、 この日は「等々力短信」千号の会に来てくださった。 「等々力短信」の馬場 さんは、福沢思想のもっともよい血脈を、昭和・平成の世に引継ぎ、一市民と しての日々の生活のなかに生かしている。 旺盛な知的好奇心からのいきいき とした観察を、平明達意の文章に綴って、報告し、主張する「独立自尊」の人 だ、と。

 少し遅れて到着した福澤諭吉協会理事長の服部禮次郎さん(正しくは、禮は ネ偏)は、馬場夫婦を壇上に上げ、とくに家内の「等々力短信」千号への貢献 に言及してくださった。

 これらの過褒に、本人はかなりこそばゆかった。 あとで家内も、神戸から 重篤な病を押して参加してくれた湊邦彦さんも「馬場って、そんなにエラかっ たの」と正直な感想を漏らしたけれど、お三人のお祝いのスピーチのおかげで、 馬場紘二の株は五円高となったのであった。

 乾杯の音頭をとった、高校が同じで大学のクラスも同じだったファイザー社 長の岩崎博充さんは、インターネットの古本屋で『五の日の手紙』が高値にな っているので、持っている人は大事にしたほうがいいという情報を伝えてくれ た。

戦争で失われた十年2009/07/10 07:11

 (再開・『渋沢敬三という人』7月5日のつづき)  追放令に該当し、すべての公職を離れた渋沢は、その大きな屋敷を財産税で 物納し、崖下の執事の住んでいた家にさっさと越してしまう。 金銭にはまっ たくあっさりしていて、「ニコボツ」(にこにこしながら没落する)といって、 平気な顔をしていたという。

しかし、このために学問活動の規模は、戦前とは、比較にならぬほど縮小せ ざるを得なかった。 長男雅英はこう書いている。  「私はもし昭和12,3年ごろのような父を中心とした共同研究が、たとえ十年 でもつづいていたら、日本のために、父のために、また多くの研究者の方がた のためにどんなによかったかと、心から残念に思っている。 戦争があのよう な無茶なプロセスをとらなかったら、また日本人の心の状態があそこまで追い 込まれることがなかったら、父の人生も、その学問も、もっと大きく豊かな花 を咲かせただろうと思う」