漱石と諭吉2016/11/02 06:14

     等々力短信 第894号 2000(平成12)年11月5日

               漱石と諭吉

 岩波書店の『漱石全集』に、第十七巻「索引」が出たのは1976(昭和51) 年4月のことで、始めてから一年を過ぎたばかりの、ハガキに和文タイプ謄写 版印刷だった「広尾短信」同年5月15日の44号で、取り上げている。 さっ そく「広尾」「慶應」「福沢諭吉」を引いてみて、当時住んでいた「広尾」の、 まさにその同じ場所である祥雲寺墓地の横に、鈴木三重吉が住んでいたらしい こと、「慶應」は、講演を断わる手紙を書いたという日記と、英語教師になれと いう話を断わることにふれた小宮豊隆宛の手紙に登場するだけで、「福沢諭吉」 にいたっては、『漱石全集』全十六巻に一度も現れないと書いている。 当時、 ひどくがっかりしたのを覚えている。 漱石は、福沢が嫌いだったのだろうか、 などと思った。 漱石がイギリスに留学したのは、福沢が死ぬ一年前の1900 (明治33)年のことだ。 漱石が少年期か学生時代に、ベストセラーである福 沢の著作を、まったく読んでいなかったとは考えられないからだった。

 司馬遼太郎さんは、天才夏目漱石の出現によって、大工道具ならノコギリに もカンナにもノミにもなる「文章日本語」ができあがったという持論を展開し た。 漱石の文章を真似れば、高度な文学論も書けるし、自分のノイローゼ症 状についてこまかく語ることができ、さらには女性の魅力やその日常生活を描 写することもできるというのだ。 『司馬遼太郎全集』月報に書いた「言語に ついての感想(五)」(文春文庫『この国のかたち 六』所収)の中で、司馬さん はその漱石以前に、新しい「文章日本語」の成熟のための影響力をもった存在 として、福沢諭吉の文章をあげる。 とくに『福翁自伝』を、明晰さにユーモ アが加わり、さらには精神のいきいきした働きが文章の随処に光っている、と いう。 ただ福沢の時代のひとたちの、事柄を長しゃべりするとき、つい七五 調になってしまう伝統の気配が『福翁自伝』にも匂い、そのため内容の重さに くらべて、文体がやや軽忽(きょうこつ=かるはずみ)になっていると指摘す る。 「しかし『福翁自伝』によって知的軽忽さを楽しんだあと、すぐ漱石の 『坊ちやん』を読むと、響きとして同じ独奏を聴いている感じがしないでもな い。 偶然なのか、影響があったのか。 私は論証なしに、あったと思いたい」 と、司馬さんは書いている。

 漱石の蔵書中に福沢の著作があったかどうか、『坊ちやん』に『福翁自伝』の 影響があるのかなど、両者の関係を研究してくれる人はいないだろうか。

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