大隈重信記念室と早慶の関係2017/04/27 07:14

 つづいて早稲田大学早稲田キャンパスへ。 お馴染みガウン姿の大隈重信銅 像と、その脇にひっそりと座る高田早苗銅像を見る。 大隈重信は東京専門学 校(早稲田大学)をつくったが、口は出さず、実際の運営は主に高田早苗が担 当したそうだ。

 大隈重信銅像前の旧図書館、會津八一記念博物館の一階に、創立125年を記 念して設けられた大隈重信記念室がある。 大隈重信(八太郎)は、天保9(1838) 年(福沢誕生の3年後)、佐賀藩士の家に誕生。 維新後、英国公使との交渉 で才を評価され、政府中枢へ進んでいく。 明治3(1870)年、参議となった 大隈はさまざまな近代化政策を推進する。 しかし、国会早期開設の意見書提 出が導引となり、明治14年政変で辞任することになる。 政変の経過と影響 はこうだ。

国会開設請願運動が高まると政府も立憲政体への移行を決意したが、その時 期をめぐり漸進論の伊藤博文・井上馨と、早期国会開設論の大隈重信が対立し た。 そんな中、開拓使官有物払下げ事件が起こると、大隈に福沢、岩崎(三 菱)と組み民権運動を取り込んだ薩長派打倒の策動があるとして、伊藤らは岩 倉具視らと結び、明治14(1881)年10月、大隈らを罷免するとともに、払下 げを中止し、憲法欽定の方針と、十年後国会開設の勅諭を出して民権派の反撃 の矛先をかわした。 政変の結果、大隈傘下の矢野文雄、中上川彦次郎、尾崎 行雄、犬養毅ら福沢門下の若手官僚もいっせいに追われ、福沢が提唱していた イギリス流の議院内閣制導入の構想は完全に消滅し、日本の進むべき方向はプ ロシャ流欽定憲法採用路線に確定した。 伊藤らの依頼で政府広報新聞の発行 準備をしていた福沢は、明治15(1882)年3月独立不羈の『時事新報』を創 刊することになる。 大隈重信は同年4月、議会政治の開始をにらんで、立憲 改進党を結成して、政党政治を追い求めるとともに、同年10月、東京専門学 校(早稲田大学)を開校、政府からの圧迫に屈せず、「学問の独立」を掲げたの である。

 私には「明治14年の政変」が、日本近代のきわめて重要な分岐点になった という思いが、年々強くなっていて、この政変は、もっと言及され、研究され るべきだと考えている。 2014年10月、早稲田大学で大隈重信記念室を見て、 早慶両校が協力して「明治14年の政変」の共同研究ができないものかと、「「明 治14年の政変」の共同研究を」<等々力短信 第1064号 2014.10.25.>を 書いた。 その直後、福澤諭吉協会土曜セミナーでお見かけした佐藤能丸さん に「等々力短信」をお渡ししたのだった。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2014/10/25/7473082

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