福澤諭吉没後100年記念展〔昔、書いた福沢93〕2019/08/11 07:44

            福澤諭吉没後100年記念展

     <等々力短信 第899号 2001(平成13)年1月25日>

 この年末年始、沢山の方々から激励の手紙や電話、「じじむさく休養する為の」 綿入れ半纏まで頂戴した。 心にしみる有難いものばかりだった。 取り込ん でいて、その一つ一つには応えられなかったことは、申し訳もない。 1月1 1日、おかげさまで『五の日の手紙4』の入稿を完了した。 今回はパソコン から、メールで印刷会社に送った。 時代は、確実に進んでいる。 いずれ明 らかになることだが、印刷造本についても、友人達の暖かい支援に助けられる ことになった。 年末年始、処理しなければならない仕事が山積し、一つ一つ かたづけていった中で、最終的な原稿の整理をしたことは、ながく記憶に残る ことだろうと思う。 索引をまとめてみたら、「福沢諭吉」が何と43か所もあ り、索引の用をなさないので、小見出しを立てることにした。

 福沢研究センター副所長の松崎欣一さんからのお手紙には、23日に刊行開 始の『福澤諭吉書簡集』(全9巻・岩波書店)の内容見本とともに、「世紀をつ らぬく福澤諭吉-没後100年記念-」展の案内が同封されていた。 190 1(明治34)年になくなった福沢諭吉は、今年2001年2月3日に没後1 00年を迎える。 慶應義塾は、これを記念して、1月29日(月)から2月 10日(土)まで、銀座和光6階の和光ホールで、この展覧会を開く。 展示 のテーマは、1.福沢諭吉の人間観を中心に、2.独創的な教育の試み、3. 交際というコミュニケーションの提唱、4.現代を先取りするような女性観、 5.ゆたかな先見性にもとづく新しい社会システムの提唱、6.可能性への挑 戦としてのサイエンス論、に、わたるという。 入場無料、会期中無休、午前 10時30分~午後6時(最終日5時)。(http://fukuzawaten.keio.ac.jp/

 3.「交際」パートの企画に参加された松崎さんによれば、福沢書簡800号 が展示されるという。 それを知らせ、ぜひ展覧会に出かけて来てくれという 松崎さんのお手紙には、私への暖かいエールがこめられていた。 「等々力短 信」802号に書いた通り、短信が800号を迎えた時、松崎さんは思いつい て福沢書簡800号をごらんになった。 そして、明治19年に福沢が、友人 知己の妻女を招いて、婦人達のための「立食パーティー」を開いていたことを、 知ったというのである。

 銀座に御用のある方はもちろん、ない方も銀ブラついでに、ぜひ「世紀をつ らぬく福澤諭吉-没後100年記念-」展をごらん下さい。

大夢 土屋元作〔昔、書いた福沢94〕2019/08/12 07:06

               大夢 土屋元作

      <等々力短信 第900号 2001(平成13)年2月25日>

 「世紀をつらぬく福澤諭吉-没後100年記念-」展へ行かれた方は、前号 に書いた800号書簡を探されたのではないかと思う。 実は、私も探して、 関係の展示を何度も見直した。 会場の出口で、松崎欣一さんにお会いしたら、 「お知らせしなければいけなかったんですが…」、スペースの関係で展示できな かったのだそうだ。

 展覧会の始まる前日だったか、福沢諭吉協会の竹田行之さんからお電話があ り、この展覧会のことを『福沢手帖』に書いてもらえないかという。 ほかに 適任の方は、いくらでもいるだろう。 これにも、私への激励の意味が込めら れているのを感じて、ご好意に応えることにした。 展覧会のくわしいことは、 3月20日発行予定の『福沢手帖』108号を読んでいただくことにして、そ の原稿にあった一人物について書く。

 福沢の「独立自尊」というスローガンは、短信831号「『独立自尊』の起源」 でふれたように、福沢の晩年、意を受けた高弟たちがまとめた『修身要領』(明 治33年2月)の柱になっている。 今回の展覧会は、その「独立自尊」が、 新しい21世紀を生き抜く指針でもありつづけることを、高らかに宣言したも のだといってもよいだろう。 『修身要領』を起草した高弟は誰かといえば、 小幡篤次郎、福沢一太郎、鎌田栄吉、門野幾之進、石河幹明、日原昌造、土屋 元作などである。 その名を知らなかった土屋元作を、原稿で土井と誤記して、 竹田さんに土屋元作について教えて頂く。 『福沢手帖』32号(昭和57年 3月)で野村英一さんが、土橋俊一先生が『三田の遠近』(文化総合出版)で言 及されていて、「馬場さん好みの人物です」と…。

 土屋元作(号大夢1866-1932)は、豊後(今の大分県)日出(ひじ)の生れ、 慶應義塾の出身者ではない。 済美黌で漢学、共立学舎で洋学、さらに攻玉社、 東京専門学校(早稲田大学の前身)に学び、輸出商や役人、新聞記者などをや り、輸出商としてはアメリカに行き、借金を作ったりしている。 明治30年 時事新報に入り、その達意の文章で、福沢に目をかけられるようになった。 入 社2年目の明治32年11月、福沢の日頃の主張に沿って、土屋が「独立主義 の綱領」という一文を書いて福沢に出したところ、たいへん気に入られ、「慶應 義塾社中に示すべき道徳上の主意書」を作るようにという指示が小幡、一太郎、 石河、土屋の四名に出されたという。 『修身要領』と「独立自尊」を考える 時、土屋元作の名前を落すことはできないのだった。

福沢さんの落語〔昔、書いた福沢95〕2019/08/13 07:25

               福沢さんの落語

      <等々力短信 第901号 2001(平成13)年3月25日>

 電力の鬼、松永安左ェ門さんが、人間をダンゴにまるめる話をして、人物が 大きすぎて、とても、まるめることなど出来ないのが福沢先生だと書いている。 (『人間・福沢諭吉』1964年・実業之日本社) 福沢諭吉が、汲めども尽き ぬ泉だということは、しばしば実感してきたが、このたびもまた、その新しい 面に目を開かせられる論文を読んだ。 『福沢諭吉年鑑27』(2000年・福 沢諭吉協会)所収、谷口巖岐阜女子大学教授の「「漫言」のすすめ -福沢の文 章一面-」である。 福沢は明治15(1882)年に『時事新報』を創刊し、 それから死ぬまでの20年近くの間、ずっと今日の「社説」のような文章を書 き続けた。 その量は膨大で、『福沢諭吉全集』21巻中、9巻を占めている。  その新聞論集の中に、「社説」と平行して収められている「漫言」307編に、 谷口さんは注目する。 福沢は、奔放で多彩で茶目気タップリな「笑い」の文 章を創造し、その戯文を楽しみながら、明るく、強靭な「笑い」の精神で、時 事性の濃い社会や人事全般の問題について、論じているというのである。

  「漫言」の一例を挙げる。 創刊4日目の「妾の効能」(明15.3.4)英 国の碩学ダーウヰン先生ひとたび世に出てより、人生の遺伝相続相似の理もま すます深奥を究めるに至った。 徳川の大名家、初代は国中第一流の英雄豪傑 で猪の獅子を手捕りにしたものを、四代は酒色に耽り、五代は一室に閉じ篭り、 七代は疳症、八代は早世、九代目の若様は芋虫をご覧になって御目を舞わさせ られるに至る。 それが十代、十五代の末世の大名にも、中々の人物が出る由 縁は何ぞや。 妾の勢力、是なり。 妾なるものは、寒貧の家より出て、大家 の奥に乗り込み、尋常一様ならざる馬鹿殿様の御意にかない、尋常一様ならざ る周りの官女の機嫌をとり、ついに玉の輿に乗りて玉のような若様を生むもの なれば、その才知けっして尋常一様の人物ではないのは明らかだ、と。

 福沢は新作落語も作っていた。 「鋳掛(いかけ)久平(きうへい)地獄極 楽廻り」(明21.6.17) 散憂亭変調 口演 としてある。 鋳掛屋の久平 が死んで冥土へ行くと、かつて懇意だった遊び友達の吉蔵が、シャバのお店で の帳付の特技を生かし、無給金食扶持だけながら閻魔様の帳面をつけていた。  吉蔵に話を聞き、極楽を覗かせてもらうと、大入り満員で、蓮の葉の長屋にギ ュウ詰めになって、みんな退屈している。 近頃、シャバで教育が始まり、人 に正直の道を教えたからだという。

福沢諭吉の「実学」〔昔、書いた福沢96〕2019/08/14 08:27

               福沢諭吉の「実学」

      <等々力短信 第916号 2002(平成14)年6月25日>

 「実学」は福沢のキーワードの一つだが、意外なことに、西川俊作さんによ ると『学問のすゝめ』全編をパソコンで検索しても、わずか3個しかヒットし ないそうだ。(慶應義塾大学出版会刊『福澤諭吉著作集 第3巻 学問のすゝめ』 解説) 内2個は『学問のすゝめ』初編の「学問とは…」以下、和漢学の古文 や和歌・詩の学問ではなく、日用に役立つ、読み、書き(手紙文)、ソロバン(簿 記)、地理学、物理学、歴史学、経済学、修身学などをすすめた箇所に出て来る。  福沢は、どの学問も、事実そのものを客観的に把握し、対象に即して、そのも の自体の働きを見極め、身近なところに法則を発見して、それを現実の生活に 活用しなければならないと、いっている。

 今月1日と15日の2回、東京大学教授の平石直昭さんを講師に、丸山眞男 著『福沢諭吉の哲学他六篇』(岩波文庫)の第二論文「福沢に於ける「実学」の 転回」を読む、福沢諭吉協会の読書会に参加させてもらった。 丸山眞男さん の論文は難しい。 でも 文庫本で20ページほどの短いものだから、声に出し て何とか読み進め、一夜漬けの予習をして出かけた。 丸山さんは、福沢の「実 学」の革命的なところは、学問と生活との結合、学問の実用性の主張自体にあ るのではなく、むしろ学問と生活がいかなる仕方で結びつけられるかという点 に問題の核心があるという。 『福翁自伝』の「王政維新」の章、慶應義塾の 教育方針を述べた所に「東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに、 東洋になきものは、有形において数理学と、無形において独立心と、この二点 である」とある。 丸山さんは、福沢がヨーロッパ的学問の核心を「数理学」(「物 理学」厳密には近世の数学的物理学、ニュートンの力学体系)に見出し、中核 的学問領域を旧体制の学問の「倫理学」(「道学」修身斉家の学)から、この「数 理学」へ「転回」させたというのである。 「数理学」については、『自伝』の 富田正文先生の注に「数と理とを基礎とする学問という意味で、Physical Science の訳語と思われ、同じような意味で、他の場合には実学または物理学 ということばでこれを表現したこともある」とあり、甲南大の国語学からの福 沢研究者伊藤正雄さんは簡潔に「実証科学」と書いている。

 私は恩師故小尾恵一郎先生が最終講義で、福沢が『文明論之概略』で自然法 則と社会法則を区別せず、ジェームズ・ワットとアダム・スミスの業績を並べ て書いていることに触れておられたのは、これだったのかと、遅蒔ながら気が ついた。

それぞれの「アメリカ」〔昔、書いた福沢97〕2019/08/15 07:45

           それぞれの「アメリカ」

     <等々力短信 第917号 2002(平成14)年7月25日>

 5月に福沢諭吉協会の土曜セミナーで、阿川尚之さん(慶應義塾大学総合政 策学部教授・作家阿川弘之氏の長男)の「トクヴィルの見たアメリカ、福沢諭 吉の見たアメリカ」という話を聴いた。 歯切れがよくて面白かった。 そし て阿川尚之さんの『トクヴィルとアメリカへ』(新潮社)を読み、民主主義や独 立自尊の源流について教えられるところが多かった。 その流れで『アメリカ が見つかりましたか-戦後篇』(都市出版)を読む。 この本では、都留重人の 『アメリカ遊学記』から、村上春樹の『やがて哀しき外国語』まで、16人の アメリカ体験本を読み込みながら、アメリカについていろいろと考えている。  私は、村田聖明、ミッキー安川、石井桃子の章に感動した。

 戦後、ロックフェラー財団が日本の若手知識人をアメリカに招き、生活させ、 ありのままのアメリカを見せるプログラムがあった。 日本研究家のチャール ズ・B・ファーズ博士と坂西志保女史が選考し、テーマを一つ選ばせる以外、 特に条件をつけない、当時のアメリカの富と自信を反映した寛容な制度だった。  阿川さんの父弘之夫妻も、幼い尚之・佐和子兄妹を広島の兄夫婦に預け、昭和 30(1955)年に渡米している。

 石井桃子さん(40歳代半ば)は、岩波書店で子供の本の編集をしていた昭 和28(1953)年、坂西志保さんの来訪を受け「あなた、アメリカへ一年、 勉強にいってみる気ありますか?」といわれる。 翌年8月客船でアメリカに 着くと、めまぐるしいまでに綿密なスケジュールが待っていた。 前から文通 のあったボストンのバーサ・マホーニー・ミラー夫人という子供の本の批評誌 の主宰者が、全米に散らばる子供の本の仲間に連絡をとって、石井さんのため の旅行計画を作っていてくれたのだ。 サンフランシスコに始まり、アメリカ やカナダの各地で、児童図書館の責任者が石井さんを出迎え、図書館を案内す る。 クリスマスをミラー夫人の家で過ごし、年明けからピッツバーグのカー ネギー図書館学校で三か月間「児童文学」の集中講義を聴く。 戦争からまだ 十年なのに、どこへ行っても、初対面の人が迎えてくれ、心のこもったもてな しを受けた。 「どうしてこんなことが起こるかといえば、石井とこれらアメ リカの婦人たちが、児童文学という糸で結ばれていたからである。」 児童図書 館の充実ぶりを見て帰国した4年後、石井さんは荻窪の自宅に「かつら文庫」 を開設する。 阿川尚之さんは、日本の児童図書館運動のさきがけとなったこ の文庫の一期生だった。