慶應義塾の財政危機〔昔、書いた福沢91〕2019/08/09 07:22

               慶應義塾の財政危機

       <等々力短信 第880号 2000(平成12)年6月15日>

 西南戦争のインフレで、田中正造が儲けたという3千円とは、どのくらいの お金だったのだろうか。 まず週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』をみ る。 日本酒(上等酒1.8リットル)の値段は、明治14年11銭、昭和 55年2千2百円で約2万倍、そば(もり・かけ)の値段は、明治20年1 銭、昭和55年280円で約2万8千倍。 田中正造の3千円は、ざっと昭和 55年の6千万円から8千4百万円という勘定になろうか。

 ここで思い出したのは、明治10(1877)年の西南戦争によって、慶應 義塾が経営危機に陥ったことだ。 学生数が激減したためである。 多くの学 生が、福沢の制止を聞かず戦場に馳せ参じて、生命を落した。 秩禄公債発行 と戦費支出が重なって生じたインフレーション(西川俊作さんの『福沢諭吉の 横顔』慶應義塾大学出版会刊による、単に紙幣乱発だけが原因ではなかったよ うだ)によって、学生のほとんどがその子弟である一般士族の生活がドン底に 達したからである。 『慶應義塾百年史』によると、在学生徒数は明治9年 340名、10年282名、11年233名、12年293名。 義塾の会計 収入は明治9年9,058円、10年6,078円、11年4,297円、 12年3,727円。 田中正造の3千円は、同じ時期、明治12年の慶應義 塾の年収にも匹敵する巨額だったのである。

 慶應義塾の経費の方はといえば、年額1万2千円ぐらい必要だったようだか ら、たいへんな赤字で、福沢がそれまでにベストセラーを出して貯えていたポ ケットマネーで補填したりして、しのいでいた。 西川俊作さんに「西南戦後 インフレ期における慶應義塾と福沢諭吉」(1981年『福沢諭吉年鑑8』所 収)という論文がある。 財政危機の明治12年、建物修理その他経費を全部 節約しても、教員給与は4,800円(36円は不足)、塾の収入は上記 3,727円だから、福沢の足し金は1,037円に達した勘定になるとい う。

   教員たちは相談して、世間相場の三分の一ぐらいだった給与をさらに半減ま たは三分の一に減じても、何とかして塾をもりたてて行こうと努力した。 福 沢は義塾維持資金借用の運動を、徳川家、つづいて政府、旧薩摩藩主島津家な どに行なったが、いずれも不成功に終った。 福沢は一時廃塾も決意した。  塾の先進者たちは、ここにいたって義塾の存続を真剣に討議し、「慶應義塾維 持法案」というものを作り、明治13年11月、社中内外に訴えて募金を始め ることになる。